夏美は、駅前の小さな雑居ビルの前に立っていた。
三階の看板に、
株式会社 青木商事
と書いてある。
階段を上がり、ドアをノックする。
「失礼します」
「どうぞどうぞ」
中から軽い声が返ってきた。
事務所の中には、
整然と机が並んでいる。
奥の席に、
細身の男が座っていた。
「青木です」
「大和税理士事務所の一条です」
「ああ、ヤマゲン先生から聞いてまっせ」
青木はにこやかに立ち上がった。
「若い先生やなぁ」
「よろしくお願いします」
「まぁ座ってください」
そういうと、
机の上に領収書の束が、
ドサっと置かれた。
「これ、今月分です」
夏美は一瞬ためらった。
「あ、ありがとうございます」
鞄からノートパソコンを出す。
領収書を手に取りながら、確認していく。
「社長、この支払いなんですが」
夏美が一枚の領収書を示した。
「接待費でよろしいでしょうか」
「うーん」
青木は首を傾げた。
「先生、そこは」
一拍。
「ええ感じにしといてください」
夏美の手が止まった。
「いい感じ……ですか?」
「そう」
青木は笑った。
「税金のことは、先生の方が詳しいでしょ」
「あの、その……」
夏美は言葉を選ぶ。
「内容を確認させていただかないと――」
「大丈夫、大丈夫」
青木は手を振った。
「そのへんは先生に任せますわ」
別の領収書をめくる。
「これは備品でしょうか」
「先生のご判断で」
また別の領収書。
「こちらは贈答品でしょうか」
「先生が決めてください」
夏美は少し困った顔になる。
「社長、内容を教えていただけないと――」
「いやいや」
青木は笑って言った。
「それを考えるのが税理士さんの仕事でしょ」
「うちは領収書出すとこまで、ですわ」
そして続ける。
「こっちは商売で忙しいんですよ」
「細かいことは、先生に全部任せます」
夏美はうなずくしかなかった。
「……分かりました」
そのとき、青木がふと思い出したように言った。
「あ、そうそう」
「税金のことも、うまいことやっといてくださいね」
「うまいこと、ですか」
「ええ」
青木は笑う。
「ヤマゲン先生、いつも言うてはるやないですか」
「税理士は商売人の味方や、って」
夏美は返す言葉が見つからなかった。
帰り道。
駅までの歩道を歩く。
今日は怒鳴られてはいない。
むしろ、
終始にこやかだった。
だが。
なぜか、
どっと疲れていた。
電車に乗る。
窓の外を見ながら、
鞄からノートを取り出した。
表紙には、
社長ノート
と書いてある。
ページを開く。
ペンを走らせる。
・青木商事
・全部任せる
・内容聞いても「先生に任せる」
・税金もうまいこと
少し考える。
そして、
最後に一行書いた。
妖怪マルナゲ
ノートを閉じた。
電車が揺れる。
夏美は思う。
怒鳴る社長も大変だが、
「全部任せる社長」も、
これはこれで骨が折れる。