田中 恒一は、工場の電気を一つずつ落としていた。
機械の音が止まり、
静けさが戻る。
その静けさの中で、
ふと、頭をよぎった。
「……青色申告って、
そんなに大事なんかな」
きっかけは、
同業者との何気ない会話だった。
「うちは白やで。
別に困ってへん」
軽い口調。
深い意味は、なかったはずだ。
でも、
なぜか引っかかった。
翌日。
ヤマゲンの事務所。
イチゴ柄のネクタイは、
今日も一見すると地味だ。
でも、
よく見れば、
やっぱりイチゴだ。
「ヤマゲンさん」
田中は、
前置きなしに聞いた。
「青色申告って、
正直、
そこまで重要なんですか」
ヤマゲンは、
すぐには答えなかった。
机の上で、
イチゴポッキーを一本転がす。
「……田中さん」
静かに言う。
「それな」
「保険いらんでも
生きていけますか?
って聞かれてるのと
同じですわ」
田中は、
一瞬、言葉に詰まった。
「生きてはいけます」
「せやけど」
ヤマゲンは続ける。
「何かあった瞬間、
一発で詰みます」
「たとえばな」
ヤマゲンは、
さらっと言った。
「パソコンとか
機械、買ったとします」
「10万円以上やったら」
一拍も置かず続ける。
「原則、固定資産です」
「耐用年数で
毎年ちょっとずつ
減価償却」
田中は、
思わず顔をしかめた。
「でもな」
ヤマゲンは、
指を一本立てる。
「ここから
申告区分で差が出る」
「青色申告してたら
1点が10万円以上30万円未満の固定資産は
その年に全額、経費にできますねん」
田中は、
目を見開いた。
「……一発で?」
「そうです」
「ただし」
ヤマゲンは、
すぐに釘を刺す。
「年間上限、
300万円まで」
「超えた分は」
淡々と言う。
「アウト」
「固定資産扱いで
減価償却」
「ここ、
管理できてへん人
多いです」
「しかもな」
ヤマゲンは、
少し声のトーンを変えた。
「2026年4月1日以降取得分から」
「この30万円」
「40万円未満
まで緩和されます」
田中は、
思わず身を乗り出した。
「枠、
広がるんですね」
「せやけど」
すぐに続く。
「青色申告が前提
です」
「白色は、今まで通り
10万円以上は、原則、減価償却」
田中は、
小さく息を吐いた。
「同じ買い物で、
ここまで違うんですね」
「それが
税務です」
「ただな」
ヤマゲンは、
ここで少し間を置いた。
「白色でも
使える特例
もあります」
田中は、
少し驚いた。
「10万円以上
20万円未満」
「この固定資産」
「一括償却資産
って扱いにできます」
「名前、
ややこしいですけど」
にやっと笑う。
「一発で
経費ちゃいます」
「3年間で
均等償却
です」
「これはな」
「青色でも
白色でも
使えます」
「しかも」
指を一本立てる。
「年間上限、
ありません」
田中は、
ゆっくりうなずいた。
「名前に
だまされたら
あかんですね」
「せやから
税理士がおるんです」
「もう一個」
ヤマゲンの声が、
少しだけ低くなった。
「ここ、
ほぼ全員
忘れてます」
田中は、
背筋が伸びた。
「パソコンでも
機械でも」
「固定資産を
持ってたら」
「毎年1月」
「市役所に」
「償却資産申告書
出さなあきません」
「前年までに
取得した固定資産を
全部まとめて」
田中は、
眉をひそめた。
「……経費にしたやつも?」
「含まれます」
即答だった。
「30万円未満で
一発経費にしたやつも」
「2026年以降の
40万円未満も」
「全部、
償却資産税の対象」
「累計が」
「150万円超えたら」
「1.4%」
「毎年、
払います」
田中は、
思わず天井を見た。
「でも」
ヤマゲンは、
指を一本立てる。
「さっき言うた
一括償却資産」
「10万〜20万で
3年均等のやつ」
「これは
償却資産税の対象外
です」
田中は、
大きく息を吐いた。
「……知らんと
怖すぎますね」
償却資産税の話が終わり、
田中は、少し疲れた表情で言った。
「……青色申告って、
思ってたより
やること多いですね」
「そら、
そうです」
ヤマゲンは、
あっさり言った。
「そう言えば、青色の一番デカい特典
まだ話してまへんでしたな」
田中は、
顔を上げた。
「……65万円控除、
ですよね?」
「それです」
ヤマゲンは、
指を一本立てた。
「多い誤解がな」
ヤマゲンは、
静かに言う。
「青色にしたら
自動的に
65万円引かれる
思てる人」
「それ、
完全にアウト
です」
田中は、
苦笑した。
「……正直、
ちょっと
そう思ってました」
「ほな、
今日聞けて
正解です」
ヤマゲンは、
淡々と続ける。
「65万円控除を
取るには」
「条件があります」
「まず」
「複式簿記」
「家計簿レベル
ちゃいます」
「貸借対照表と
損益計算書が
ちゃんと
つながる帳簿」
「これが
前提です」
田中は、
小さくうなずいた。
「次」
ヤマゲンは、
間を置かず言う。
「電子申告」
「紙で出したら」
「65万円は
もらえません」
「減って」
「55万円
です」
「さらに」
「電子申告もせず
帳簿も甘かったら」
「10万円
まで落ちます」
田中は、
思わずため息をついた。
「差、
大きいですね……」
「せやから」
ヤマゲンは、
即答する。
「65万円控除は
“選ばれた人”の制度
なんです」
「あと」
ヤマゲンは、
少し声を落とした。
「これ、
正直な話ですけど」
「今後、
要件は
緩くなりません」
「税制改正で」
「“形だけ青色”」
「“中身分かってへん人”」
「切られていきます」
田中は、
背筋が伸びた。
「65万円控除ってな」
ヤマゲンは、
はっきり言った。
「国からの
信用ポイント
みたいなもんです」
「ちゃんと
数字を管理して」
「電子申告もして」
「ちゃんと
説明できる人」
「そこまで
できてる人だけ
どうぞ、
って話です」
「さらにな」
「税制改正後は
電子帳簿保存したり
請求書とかの電子保存まですると
65万控除が75万控除になりますねん」
ヤマゲンは、
イチゴポッキーを一本かじった。
カリッ。
「田中さん」
「青色申告ってな」
「節税のための
裏技
ちゃいます」
「固定資産の扱いも」
「65万円控除も」
「全部」
少し間を置く。
「“管理できる人”に
有利な制度
なんです」
「楽したい人には
向いてへん」
「でも」
語気を和らげる。
「会社を続けたい人には
一番、
味方になる制度
です」
田中は、
深くうなずいた。
青色申告。
ただの申告区分だと
思っていた。
でも今は、
会社の覚悟・体力・姿勢
全部を問われている
制度に見えていた。
「ヤマゲンさん」
田中が言う。
「……これ、
青色に“なる”前に
ちゃんと
覚悟決めな
あかんですね」
「正解です」
ヤマゲンは、
イチゴ柄のネクタイを
整えた。
「青色は
“なってから考える”
制度ちゃいます」
「考えた人だけが
使いこなせる制度
です」
田中はめまいがしそうな思いだった。
「せやけど」
ヤマゲンは言った。
「そのために
顧問税理士が付いてますねん」
(あ、ポッキー、足元に一本落ちとった!)
嬉しそうな顔で
無邪気にポッキーを拾い上げるヤマゲンを見て
田中は微笑ましくも
頼もしく思った。
大和源太郎税理士。
ヤマゲン先生。。。
ヤマゲンさん。。。
この人、ホンモノや。
税務調査が終わった翌日。
田中 恒一は、
何もない事務所で、
一人、机に向かっていた。
調査官はいない。
書類も片付いている。
なのに、
妙に落ち着かない。
「終わった・・・んですよね?」
その日の夕方、
ヤマゲンの事務所に顔を出した。
「終わりましたで」
ヤマゲンは、
あっさり言った。
イチゴポッキーを一本、
かじりながら。
「じゃあ、
これで終わりですね?」
田中がそう聞くと、
ヤマゲンは首を横に振った。
「ここからが、
本番です」
その言葉に、
田中は少し驚いた。
ヤマゲンは、
調査結果のメモを机に置いた。
「調査終わった直後ってな」
「だいたいの人が」
「“気ぃつけます”で終わります」
「それ、意味ないです」
きっぱり言う。
「大事なんは
なぜ、そこがズレたかです」
売上計上のタイミング。
経費の説明不足。
書類の保存方法。
「ミスそのものより・・・
仕組みです」
「次」
ヤマゲンは、
少しトーンを落とす。
「調査後に
一番あかんのは」
「“誰が悪かったか”
探すことです」
田中は、
思い当たる節があった。
「事務の人が…」
「それ、
違います」
即答だった。
「人が変わったら
また起きます」
「せやから」
「人に頼らん流れを作る」
これが、
調査後の一番の仕事です」
「三つ目」
ヤマゲンは、
少しだけ笑った。
「これ、
意外とやらへん」
「税務署が
どこを見たか
社内で共有する」
田中は、
はっとした。
「確かに、
自分だけで
分かった気に
なってました」
「それ、
危険です」
「社長だけ
分かってても
現場が変わらんかったら
また、
同じとこ突かれます」
「最後」
ヤマゲンは、
はっきり言った。
「次の調査は、
必ずあります」
田中は、
思わず苦笑した。
「脅しですか」
「現実です」
淡々と続ける。
「せやから」
「今回で
終わったと思わんこと」
「今回を
基準にすること」
「これが」
指を一本立てる。
「一番、賢いやり方です」
ヤマゲンは、
イチゴポッキーの箱を閉じた。
「田中さん」
「税務調査ってな」
「点数付けの場とちゃいます」
「会社の弱点チェックです」
「せやから」
「終わったあとに
何も変えへん会社は・・・」
少しだけ、
厳しい声になる。
「同じこと、
繰り返します」
田中は、
深くうなずいた。
調査は、
終わった。
でも、
会社は続く。
「ヤマゲンさん」
田中が言う。
「……税務調査って」
「“嫌な思い出”にするか」
「“会社を強くした出来事”にするか」
「選べるんですね」
「せやから・・・」
ヤマゲンは、
にやっと笑った。
「顧問税理士は、
調査の“後”が
本番なんです」
イチゴ柄のネクタイが、
少しだけ揺れた。
ヤマゲンは、
珍しく何も説明せず、
コーヒーを一口飲んだ。
イチゴポッキーも、
まだ開けない。
「田中さん」
静かに言う。
「税務調査ってな」
「来るか、来えへんか
より」
「来たときに
どうなるか
の方が、
よっぽど大事です」
田中は、
黙ってうなずいた。
「まずな」
ヤマゲンは、
はっきり言った。
「慌てる会社の社長ほど、
一人で何とかしようとします」
田中は、
耳が痛かった。
「調査の連絡来た瞬間・・・
◯ネット検索
◯知り合いに電話
◯昔の資料をひっくり返す」
「これ、
だいたい失敗パターンです」
「逆に」
少し間を置く。
「慌てへん会社は」
「まず最初に
顧問税理士に電話します」
「それだけでな」
ヤマゲンは、
軽く肩をすくめた。
「半分、終わってます」
「二つ目」
ヤマゲンは、
棚の方を指した。
「書類が
どこにあるか
分かってる会社」
「これ、
めちゃくちゃ強いです」
田中は、
思わず苦笑した。
「探し物してる時点で」
「調査官はな」
「“管理が甘い”
って判断します」
「逆に」
「すぐ出てくると」
トーンが変わる。
「“整ってる会社”
になります」
「三つ目」
ヤマゲンは、
少し意外なことを言った。
「完璧やと思ってない会社」
田中は、
首をかしげた。
「完璧ちゃう方が
ええんですか?」
「ええ」
即答だった。
「“絶対問題ないです”
って会社ほど」
「一個出たら
一気に崩れます」
「慌てへん会社は」
淡々と言う。
「“ズレてる可能性はある”
前提で来てます」
「せやから」
「一個指摘されても」
「“そこですね”
で済むんです」
「四つ目」
「これ、
めっちゃ大事です」
ヤマゲンの声が、
少し強くなる。
「修正は、
負けちゃいます」
「でもな」
「揉める方が、
よっぽど負け
です」
田中は、
深くうなずいた。
「慌てへん会社は」
「修正が必要なら」
「事実として
淡々と受け止めます」
「感情、
入れません」
「最後」
ヤマゲンは、
少し笑った。
「これ、
意外でしょ」
「調査が始まると」
「“今日で何日目や”
“いつ終わるんや”
って気になる」
「でもな」
指を一本立てる。
「終わりを気にする会社ほど、
余計なことします」
「慌てへん会社は」
「やることだけ
淡々とやる」
「結果」
あっさり言う。
「早く終わります」
ヤマゲンは、
ここでようやく
イチゴポッキーを開けた。
一本、
口に運ぶ。
カリッ。
「田中さん」
「税務調査ってな」
「度胸の問題
ちゃいます」
「準備と
考え方の問題
です」
「来たらどうしよう、
やなくて」
「来ても
いつも通りやれるか」
「そこです」
田中は、
大きく息を吐いた。
不安は、
完全には消えない。
でも、
「どう振る舞えばいいか」は
見えてきた。
「ヤマゲンさん」
田中が言う。
「……税務調査って」
「“イベント”やなくて」
「“延長戦”
みたいなもんですね」
「ええこと言いますやん」
ヤマゲンは、
イチゴ柄のネクタイを
軽く整えた。
「日常がちゃんとしてたら、
延長戦も
ちゃんと戦えます」
ヤマゲンは、
売上表でも
決算書でもなく、
試算表を机に広げた。
「田中さん」
ネクタイのイチゴ柄を、
指で軽く押さえながら言う。
「税務調査を
完全に防ぐ方法
は、ありません」
田中は、
正直にうなずいた。
「……ですよね」
「せやけどな」
ヤマゲンは、
少しだけ口角を上げる。
「呼ばれにくくする会社
は、
作れます」
「一つ目」
試算表を
トン、と叩く。
「月次で数字を
見てる会社」
「これだけでな」
はっきり言う。
「調査対象から
一段、外れます」
田中は、
少し意外そうだった。
「税務署な」
ヤマゲンは続ける。
「“決算だけ
キレイな会社”
より」
「毎月、
同じ温度で
数字見てる会社
を信用します」
「決算月だけ
急に動く数字」
「これが
一番、
怪しまれます」
「二つ目」
今度は、
売掛金一覧。
「売上と入金のズレ」
「これな」
声が少し低くなる。
「説明できたら
問題ない」
「説明できへんかったら」
一拍も置かず言う。
「調査理由
になります」
請求日。
納品日。
入金日。
「この三つが
頭の中で
つながってる会社」
「ほぼ、
呼ばれません」
「三つ目」
ヤマゲンは、
消費税申告書を
横に置いた。
「消費税」
短く言う。
「これはな」
「利益の話ちゃいます」
「資金繰りの話
です」
田中は、
第30話を思い出していた。
「売上入金時点で」
「消費税分を
頭の中で
切り分けてる会社」
「これ、
めちゃくちゃ
強いです」
「逆に」
「消費税を
経費感覚で
見てる会社」
ヤマゲンは、
首を横に振る。
「だいたい、
どこかで
歪みます」
「四つ目」
領収書ではなく、
予定表を指す。
「経費な」
「使ったあとに
考える人、
多いですけど」
「本当は」
少し身を乗り出す。
「使う前に
考える」
「これ、
めちゃくちゃ
大事です」
「使う前に」
「誰と
何のために
どこにつながるか」
「これ、
一言で言えたら」
にやっと笑う。
「ほぼ、
セーフ
です」
「最後」
ヤマゲンは、
田中を見る。
「社長が
自分の会社の数字を
語れること」
「完璧で
ある必要はないです」
「でも」
指を一本立てる。
「売上
利益
消費税」
「この三つを」
「自分の言葉で
説明できる」
「これだけで」
静かに言う。
「調査官の見る目、
変わります」
ヤマゲンは、
ここでようやく
イチゴポッキーを一本取った。
カリッ。
「田中さん」
「税務調査ってな」
「突然来るイベント
ちゃいます」
「日常の積み重ねの
結果
です」
「せやから」
「今日から
一個ずつ
整えていったら」
少し笑う。
「気づいたら、
呼ばれにくい会社
になってます」
田中は、
深く息を吐いた。
怖がる話だと
思っていた税務調査が、
少しだけ
現実的に見えた。
「ヤマゲンさん」
田中が言う。
「……税務調査って」
「対策、
今日からできるんですね」
「せやから」
ヤマゲンは、
イチゴ柄のネクタイを
軽く整えた。
「顧問は、
日常の仕事
なんです」
ヤマゲンは、
珍しくポッキーに手を伸ばさなかった。
ネクタイのイチゴ柄だけが、
やけに目に入る。
「田中さん」
少し低い声で言う。
「税務調査ってな」
「完全にランダム
ちゃいます」
田中は、
その一言で察した。
「……何か、
特徴があるんですか」
「あります」
即答だった。
「しかもな」
ヤマゲンは、
あっさり言う。
「だいたい、
重なります」
「一つ目」
ヤマゲンは、
売上推移のグラフを指した。
「毎年」
「ほぼ同じ売上
ほぼ同じ利益」
「これな」
少し笑う。
「経営的には
優秀
です」
田中は、
一瞬、安心しかけた。
「でも」
すぐ続く。
「税務的には」
トーンが変わる。
「“作ってる可能性”
を疑われます」
田中の眉が、
ぴくりと動いた。
「特に」
「決算月だけ
利益が調整されてる」
「消費税の境目で
止まってる」
「こういう数字」
はっきり言う。
「見られます」
「二つ目」
今度は、
通帳のコピー。
「現金」
ヤマゲンは、
短く言った。
「売上は
入ってない」
「でも」
「生活できてる」
田中は、
黙り込んだ。
「税務署な」
「ここ、
一番嫌います」
「説明できへん現金は」
間を置かず言う。
「全部、
売上候補
です」
「三つ目」
領収書の束を、
軽く叩く。
「経費多い会社、
山ほどあります」
「でもな」
「同じ科目に
異常に偏ってる」
「これ、
引っかかります」
交際費。
旅費交通費。
外注費。
「毎年、
同じ時期」
「同じ金額帯」
「同じ店」
「これな」
ヤマゲンは、
静かに言う。
「“考えて入れてる”
痕跡
です」
田中は、
ここで思わず聞いた。
「……それも
関係あるんですか」
「あります」
きっぱり。
「税理士変わる理由、
色々あります」
「でも」
「短期間で
コロコロ変わる」
「これは」
少し言葉を選ぶ。
「“何かある会社”
扱いされます」
田中は、
背筋が伸びた。
「最後」
ヤマゲンは、
田中を見る。
「社長が
自分の数字を
説明できへん」
田中は、
耳が痛かった。
「売上
利益
消費税」
「“税理士に任せてます”」
その言葉を、
ヤマゲンは
はっきり否定した。
「これ、
一番あかん」
「税務署からしたら」
「“じゃあ、
誰が責任持ってるん?”
です」
ヤマゲンは、
ようやくポッキーを一本取った。
だが、
すぐには食べない。
「田中さん」
「調査来る会社ってな」
「悪い会社
ちゃいます」
「説明できへん会社
です」
その言葉は、
重かった。
「逆に言うたら」
少し笑う。
「数字が説明できて」
「現金の流れが見えて」
「税務の考え方、
分かってたら」
「調査、
怖がる必要ない」
田中は、
深く息を吐いた。
自分の会社は、
どうだろう。
少なくとも、
「考える材料」は
はっきりした。
「ヤマゲンさん」
田中が言う。
「……これ、
全部、
事前に直せます?」
「直せます」
即答だった。
そして、
ポッキーをかじる。
「せやから、
顧問なんです」
甘い音が、
静かに響いた。
税務調査の話になると、
田中 恒一は、
いつも同じ疑問が浮かんでいた。
「……ヤマゲンさん」
「税務調査のときって」
「税理士さんは、
何してくれるんですか?」
ヤマゲンは、
少しだけ笑った。
「ええ質問ですね」
そして、
即答しなかった。
「派手なことは、
何もしません」
その一言に、
田中は拍子抜けした。
「派手なこと、
しないんですか」
「せえへんです」
きっぱり言う。
「怒鳴らへん
論破せえへん
裏技もない」
田中は、
少し笑った。
「ほな、
何を……」
ヤマゲンは、
机の上に
一枚の紙を置いた。
「交通整理
です」
「交通整理?」
「ええ」
ヤマゲンは、
指で紙に線を引く。
「税務調査ってな」
「社長
税務署
税理士」
「三者が
同時に喋ったら」
線が、
絡まる。
「必ず事故ります」
「一つ目の仕事」
ヤマゲンは、
田中を見る。
「社長を、
喋らせすぎない」
田中は、
少し驚いた。
「それ、
守ってくれてる
ってことですか?」
「そうです」
即答だった。
「社長はな」
「良かれと思って
説明しすぎる」
「でもな」
声を落とす。
「調査は、
説明会ちゃいます」
「聞かれたことだけ
答える」
「それ以外は」
少し間を置く。
「税理士が引き取ります」
「二つ目」
ヤマゲンは、
軽く笑う。
「翻訳
です」
「翻訳?」
「ええ」
「社長の言葉を
税務署向けに」
「税務署の言葉を
社長向けに」
「そのまま
投げ合ったら、
必ずズレます」
田中は、
深くうなずいた。
確かに、
同じ日本語なのに、
意味が違う。
「三つ目」
ヤマゲンの声が、
少し低くなる。
「ここが、
一番大事
です」
「全部、
否定する税理士」
「全部、
認める税理士」
「どっちも、
あかん」
田中は、
息をのんだ。
「認めるべきは、
認める」
「守るべきは、
守る」
「その線、
その場で
引くのが」
はっきり言う。
「顧問税理士の仕事
です」
「四つ目」
ヤマゲンは、
少し表情を和らげた。
「空気作り
です」
「空気?」
「ええ」
「調査官も、
人です」
「敵に回したら
長引く」
「味方にしても
意味ない」
田中は、
首をかしげた。
「じゃあ……」
「“仕事しやすい相手”
になるんです」
ヤマゲンは、
さらっと言った。
「失礼なく
無理せず
事実ベースで」
「これだけで」
「調査の温度、
かなり変わります」
ヤマゲンは、
イチゴポッキーを一本取り、
今度はちゃんとかじった。
カリッ。
「田中さん」
静かに言う。
「顧問税理士な」
「税務調査のために
存在してる
わけちゃいます」
「でも」
少しだけ、
声を強める。
「税務調査のときに
一番、
力を発揮します」
田中は、
深く息を吐いた。
顧問料。
今までは、
毎月の経費だと
思っていた。
でも今は、
意味が違って見える。
「ヤマゲンさん」
田中が言う。
「……来ても、
大丈夫な気が
してきました」
「来えへんのが
一番ええですけどね」
ヤマゲンは、
少し笑った。
「せやけど」
「来ても、
一人ちゃいます」
その言葉は、
田中の胸に
静かに残った。
ヤマゲンは、
調査の話になると、
必ず最初にこう言う。
「田中さん」
「税務調査でな」
「“やったらあかん行動”は、
言葉より多い
です」
田中は、
少し身構えた。
「行動、ですか」
「ええ」
ヤマゲンは、
軽くうなずく。
「喋らんように気ぃつけてても」
「行動で
全部台無しになる人、
多いです」
ヤマゲンは、
机の上にファイルを二つ並べた。
「これな」
「聞かれてない資料、
出したらあかん」
田中は、
少し驚いた。
「でも、
全部出した方が
誠実ちゃいます?」
「それな」
ヤマゲンは、
首を横に振る。
「誠実と親切、
別モンです」
「調査官は」
「必要なもんだけ
聞きます」
「そこに」
指で机を叩く。
「余計な資料を
自分から乗せる
必要、ありません」
「結果な」
「調査範囲、
広がるだけ
です」
田中は、
黙ってうなずいた。
「二つ目」
ヤマゲンは、
少し声を落とす。
「その場で
即答しない」
「分からんことを
分かった顔で
言う」
「これ、
最悪です」
田中は、
前回の話を思い出した。
「“確認します”
ですよね」
「正解」
即答だった。
「その場で
言い切った言葉は」
「記録に残ります」
「後から」
「“やっぱ違いました”
は、
ほぼ通りません」
ここで、
ヤマゲンは
少し笑った。
「これ、
一番多いです」
「雑談?」
「ええ」
「調査官な」
「いきなり
数字の話、
しません」
「天気
業界
最近どうです?」
田中は、
うなずく。
確かに、
ありそうだ。
「そこでな」
ヤマゲンは、
はっきり言った。
「喋りすぎたら
負け
です」
「雑談の中で」
「“最近売上落ちてて”
とか」
「“実は現金取引もあって”
とか」
「地雷、
踏みます」
田中は、
思わず顔をしかめた。
「四つ目」
ヤマゲンの声が、
さらに低くなる。
「“すぐ直します”
って言葉」
「これな」
田中は、
ピンと来た。
「認めたことに
なるんですか」
「そうです」
即答だった。
「“直します”=
“間違ってました”」
「調査官は」
「“じゃあ、
追徴ですね”
になります」
「直すかどうかは」
指を一本立てる。
「調査、
終わってから
です」
ヤマゲンは、
イチゴポッキーを一本取った。
だが、
まだ食べない。
「田中さん」
静かに言う。
「税務調査ってな」
「戦う場
ちゃいます」
「でも」
少しだけ間を置く。
「無防備で
立つ場でもない」
「守るルールさえ
知ってたら」
「だいたい、
大事故には
なりません」
田中は、
大きく息を吐いた。
調査は、
怖いものだと思っていた。
でも今は、
「準備と姿勢」の問題だと
分かってきた。
「ヤマゲンさん」
田中が言う。
「……税務調査って」
「知らんことが
一番怖いんですね」
「せやから」
ヤマゲンは、
ここでようやく
ポッキーをかじった。
「知ってる人が
横におるんです」
甘い音が、
静かな部屋に響いた。
ヤマゲンは、
椅子に深く腰かけたまま、
腕を組んだ。
イチゴポッキーには、
まだ手を伸ばさない。
「田中さん」
静かに言う。
「税務調査でな」
「これだけは、
言うたらあかん
って一言、
あります」
田中は、
ごくりと唾を飲んだ。
「……何ですか」
ヤマゲンは、
少しだけ笑った。
でも、
目は笑っていない。
「“みんな、
そうしてます”
です」
田中は、
一瞬、意味が分からなかった。
「みんな……?」
「ええ」
ヤマゲンは、
ゆっくり続ける。
「“他の会社もやってます”
“周りも同じです”
“前の税理士が言いました”」
「全部、
同じ意味です」
田中の顔が、
少しずつ曇る。
「それ、
あかんのですか?」
「あきません」
即答だった。
「税務調査でな」
ヤマゲンは、
指を一本立てる。
「“他人基準”は、
何の防御にも
なりません」
「税務署が見るのは」
決算書を指す。
「田中さんの会社
です」
「隣の会社でも
同業でも
親戚でもない」
田中は、
黙ってうなずいた。
「実務ではな」
ヤマゲンは、
少し踏み込む。
「“みんなやってる”
って言葉が出た瞬間」
「調査官の頭は、
こうなります」
少し間を置かず、
言い切る。
「“ほな、
どこまで広がってるか
見よか”」
田中は、
思わず息をのんだ。
「つまりな」
ヤマゲンは、
低い声で続ける。
「自分一人で
終わる話が」
「業界全体の話に
引き上げられる」
それは、
最悪の展開だ。
「他にもな」
ヤマゲンは、
指を折っていく。
「“昔からそうです”」
「“慣例です”」
「“細かいことは
気にしてません”」
「これな」
はっきり言う。
「全部、
“見直す理由”
になります」
田中は、
思わず苦笑した。
どれも、
言いそうだ。
「じゃあ」
田中が、
恐る恐る聞く。
「分からんときは、
どう言えば……」
ヤマゲンは、
少しだけ表情を緩めた。
「ええ質問です」
そして、
こう言った。
「“確認します”
です」
「確認?」
「ええ」
「調査の場でな」
「その場しのぎの
説明、
一番あかん」
「分からんことを
分かったフリしたら」
「後で、
必ず矛盾出ます」
ヤマゲンは、
静かに続けた。
「せやから」
「分からんときは」
「“顧問税理士に
確認します”」
「それで
ええんです」
田中は、
大きく息を吐いた。
「……正直、
助かります」
「でしょ」
ヤマゲンは、
ここでようやく
イチゴポッキーを一本取った。
カリッ。
「税務調査ってな」
噛みながら言う。
「頭の良さ比べ
ちゃいます」
「一貫性の勝負
です」
「最後に」
ヤマゲンは、
指を一本立てた。
「これだけ
覚えといてください」
「調査官の前では」
「説明は、
短く」
「聞かれたことだけ
答える」
「余計な親切、
いらんです」
田中は、
深くうなずいた。
今までの自分は、
良かれと思って
喋りすぎていた。
「田中さん」
ヤマゲンは、
穏やかに言った。
「税務調査はな」
「黙る勇気
も、
立派な対策です」
イチゴポッキーの箱が、
机の端に置かれている。
甘い匂い。
でも、
今日の話は、
かなり苦い。
その苦さが、
田中には
やけにリアルだった。
ヤマゲンは、
机の引き出しから
一冊のファイルを取り出した。
表紙には、
何も書いていない。
「田中さん」
ファイルを、
トン、と机に置く。
「税務調査って聞くと」
「何見られるか、
分からん思ってません?」
田中は、
正直にうなずいた。
「はい……
全部、ですか?」
「全部は、
見ません」
即答だった。
「時間も
人手も
限られてますから」
ヤマゲンは、
指を三本立てた。
「必ず見るのは、
この3つ
です」
「一つ目」
ヤマゲンは、
売上台帳を開く。
「売上の計上漏れ」
「これがな」
少し笑う。
「一番多い」
田中の表情が、
固まった。
「現金売上
端数
期ズレ」
「悪気なくても」
はっきり言う。
「漏れてたら、
アウト
です」
「特に見られるのは」
指でなぞる。
「・決算月の前後
・売上が急に落ちてる月
・消費税が絡むライン」
「売上ってな」
ヤマゲンは、
静かに言った。
「隠そうと思わんでも、
“落ちる”もん
です」
「二つ目」
今度は、
領収書の束。
「経費」
「第22話で話したやつです」
田中は、
苦笑した。
「税務署はな」
ヤマゲンは、
淡々と続ける。
「金額より」
「“なんで使ったか”
を聞きます」
「ここで
“たぶん”
“いつも”
“慣例で”」
指を折る。
「これ、
全部アウトワードです」
「一回な」
ヤマゲンは、
過去を思い出すように言った。
「“社長の気分転換です”
って言うた人、おって」
「その瞬間」
首を横に振る。
「全否認
でした」
田中は、
思わず息をのんだ。
「三つ目」
ヤマゲンは、
通帳を指で叩く。
「お金の流れ」
「これがな」
声を落とす。
「一番、
ウソつけへん」
「売上は
誤魔化せても」
「経費は
理由つけても」
「現金の動きは」
きっぱり言う。
「必ず、
足跡残ります」
田中は、
思わず自分の通帳を思い浮かべた。
「特に見られるのは」
「・私的な引き出し
・急に増えた現金
・説明できない入金」
「これ、
説明できへんと」
ヤマゲンは、
少し間を置かずに続ける。
「売上認定
されます」
売上認定。
「税務署が」
「“これは売上やろ”
って決めるやつです」
「反論、
ほぼ通りません」
空気が、
重くなった。
ヤマゲンは、
ここでファイルを閉じた。
「でな」
少し柔らかく言う。
「これ、
教科書に
載ってませんけど」
田中を見る。
「一番見られてるの、
社長の態度
です」
「態度……?」
「ええ」
「聞かれたことに
ちゃんと答えるか」
「分からんことを
“分からん”
言えるか」
「変に
取り繕わへんか」
「ここでな」
はっきり言う。
「嘘ついた瞬間、
全部、疑われます」
田中は、
大きく息を吐いた。
「田中さん」
ヤマゲンは、
イチゴポッキーを一本取り、
まだ食べずに言った。
「税務調査ってな」
「怖いイベント
ちゃいます」
「日頃の処理が
ちゃんとしてるかの
確認作業
です」
「逆に言うたら」
少し笑う。
「ここ3つ
ちゃんとできてたら」
「調査、
だいたい静かに終わります」
田中は、
静かにうなずいた。
調査は、
突然来る。
でも、
準備は、
今日からできる。
そう思えた。
ヤマゲンは、
イチゴポッキーの箱を
机の端に寄せたまま、
一枚の領収書を取り出した。
「田中さん」
その紙を、
指でつまむ。
「これ、
何の領収書か、
覚えてます?」
田中は、
一瞬考えてから答えた。
「……接待、
やったと思います」
「“やったと思う”」
ヤマゲンは、
その言葉を繰り返した。
声は静かだ。
「このな」
領収書を軽く振る。
「“やったと思う”
が一番、
税務署に嫌われます」
田中は、
思わず姿勢を正した。
「経費ってな」
ヤマゲンは続ける。
「払った事実より」
「何のために使ったか
が大事です」
「金額ちゃいます」
「理由です」
理由。
「これ、
勘違い多いんですけど」
ヤマゲンは、
淡々と言った。
「仕事に関係してたら
何でも経費、
ちゃいます」
田中の胸に、
少しチクっと刺さる。
「税務署が見るのは」
指を二本立てる。
「業務関連性」
「必要性」
「この二つ、
説明できるかどうかです」
ヤマゲンは、
領収書を指さした。
「この接待」
「誰と
何の目的で
次の仕事に
どうつながったか」
「これ、
言えます?」
田中は、
口を開きかけて、
止まった。
「……正直、
今は言えません」
「それが正解です」
即答だった。
「無理に
“それっぽい理由”
作ったら」
ヤマゲンは、
はっきり言った。
「調査で、
一発アウト
です」
アウト。
「否認されたらな」
声が、少し低くなる。
「税金取られるだけや
思ってません?」
田中は、
小さくうなずいた。
「それだけやないです」
「延滞税
加算税」
「下手したら」
一拍も置かずに続ける。
「“意図的”と判断されたら
重加算税
です」
空気が、
ぐっと重くなった。
「せやから」
ヤマゲンは、
少し声を和らげる。
「僕はな」
「グレーは、
基本やらん」
「白か、
やらないか」
「その代わり」
領収書をまとめて置く。
「堂々と使える経費
は、
ちゃんと使います」
田中は、
思わず聞いた。
「……その違いは、
何ですか?」
ヤマゲンは、
少しだけ笑った。
「説明できるかどうか
です」
「第三者に」
「税務署に」
「銀行に」
「奥さんに」
最後の一言で、
田中は吹き出しそうになった。
「奥さんにも?」
「一番、
厳しい審査員です」
ヤマゲンは、
真顔で言う。
「そこで
通らん理由は」
「だいたい、
税務署でも
通りません」
ヤマゲンは、
ここでようやく
イチゴポッキーを一本取った。
カリッ。
「田中さん」
噛みながら言う。
「経費ってな」
「“入れる技術”
やないです」
「“守る技術”
です」
「後で
否認されへんように」
「調査で
眠れへん夜を
作らんように」
田中は、
ゆっくり息を吐いた。
今までの自分は、
「入れられるかどうか」
しか考えていなかった。
「これからは」
ヤマゲンは、
ポッキーを机に置いて言った。
「経費、
一枚見るたびに」
「これ、
説明できるか?
って聞いてください」
それだけで、
判断は、
かなり変わります」
田中は、
静かにうなずいた。
経費は、
節税の道具じゃない。
会社を守るための、
防具なのだと、
初めて分かった気がした。
イチゴポッキーの箱は、
机の端に置かれたままだった。
ヤマゲンは、
ネクタイのイチゴ柄を整えながら、
資料に目を落としている。
「……ヤマゲンさん」
田中 恒一が、
少し言いづらそうに切り出した。
「率直に聞いても、
ええですか」
「どうぞ」
「節税って、
何かできることあります?」
その瞬間だった。
ヤマゲンの手が、
ほんの一瞬、止まった。
ポッキーには触れない。
ネクタイもいじらない。
視線だけを、
田中に向けた。
「……田中さん」
声は穏やかだが、
空気が変わる。
「その言葉な」
ゆっくり言う。
「税理士が一番、
誤解されやすい言葉
ですわ」
田中は、
背筋を伸ばした。
「節税いうと」
ヤマゲンは続ける。
「税金を
減らすテクニック、
思われがちですけど」
資料の一行を、
指で叩く。
「実務ではな」
「利益を
どう“壊さずに残すか”
の話です」
「壊さずに……」
「ええ」
ヤマゲンは、
数字を追いながら話す。
「たとえば」
「利益を減らすために
無理に経費使う」
「これは
税金は減ります」
少し間を置く。
「でも」
「現金も減ります」
田中は、
黙ってうなずいた。
「税務署な」
ヤマゲンは、
淡々と言った。
「経費の金額より
“理由”
見てます」
「節税目的だけの支出、
説明つかへんかったら」
「普通に
否認されます」
否認。
その言葉が、
ずしっと来る。
「それに」
ヤマゲンは、
決算書を閉じた。
「銀行は
もっとシビアです」
「節税で
利益削ってる会社」
「融資、
一番嫌われます」
田中は、
思わず聞き返した。
「税金、
少ない方が
ええんちゃいます?」
「ちゃいます」
即答だった。
「銀行が見たいのは」
「税金を払ったあとに
何が残ってるか
です」
ヤマゲンは、
ここで初めて
イチゴポッキーを一本取った。
だが、
口には入れず、
机に置く。
「節税いう言葉な」
静かに言う。
「“先に言うたらあかん言葉”
です」
「先に?」
「順番があるんです」
指を三本立てる。
「まず
利益を出す」
「次に
現金を残す」
「最後に
税金をコントロールする」
「この順番、
ひっくり返したら」
ヤマゲンは、
はっきり言った。
「だいたい、
事故ります」
田中は、
苦笑した。
思い当たる節が、
多すぎた。
「せやから」
ヤマゲンは、
ネクタイのイチゴを
軽くつまむ。
「僕が言う
節税はな」
「“減らす”やなくて
“耐える”ための設計
です」
耐える。
「税金は」
一拍置かず、
言い切る。
「必ず来ます」
「せやから」
「来る前提で
壊れへん形に
しておく」
「それが
顧問税理士の仕事です」
田中は、
大きく息を吐いた。
節税。
今まで、
便利な言葉だと思っていた。
でも実際は、
扱いを間違えたら
一番危ない言葉だった。
「ヤマゲンさん」
田中が言う。
「……今日、
節税の話、
聞いてよかったです」
「え?」
「やらなあかんこと、
先に分かりました」
ヤマゲンは、
少しだけ笑った。
「それでええんです」
そして、
ようやくポッキーをかじる。
「節税は、
一番最後の話
ですから」
契約を交わしてから、
初めての打ち合わせだった。
事務所のドアを開けた瞬間、
田中 恒一は、
ほんの一瞬、違和感を覚えた。
机の上に、
赤い箱が置いてある。
やけに、目立つ。
――イチゴポッキー。
「……それ」
思わず、口から出た。
「気になります?」
ヤマゲンは、
悪びれもせず、箱を手に取った。
「イチゴポッキーですわ」
田中は、
一瞬、言葉に詰まった。
税理士事務所。
顧問契約後、初回の打ち合わせ。
机の上の、イチゴ。
そして、
もう一つ。
視線を上げた瞬間、
田中は気づいた。
――ネクタイ。
よく見ないと分からない。
でも確かに、
小さなイチゴ柄。
「……あの」
田中は、
少し言いづらそうに言った。
「ネクタイも、
イチゴですよね?」
ヤマゲンは、
一瞬だけ間を置いてから、
にやっと笑った。
「よう気づきましたね」
ネクタイを、
指で軽くつまむ。
「これな、
わざとです」
「……わざと?」
「はい」
即答だった。
「税理士事務所ってな」
ヤマゲンは、
椅子に腰かけながら言う。
「入った瞬間、
肩に力入りすぎるんです」
「せやから」
イチゴポッキーの箱と、
ネクタイを、
交互に指す。
「最初に一個、
違和感置いとく」
田中は、
思わず笑いそうになるのを、
こらえた。
「お客さん側からしたら」
ヤマゲンは続ける。
「『イチゴ好きなん?』
『センスないん?』
どっちか思うでしょ」
「……正直、
思いました」
「でしょ」
満足そうにうなずく。
「その瞬間な」
声のトーンが、
少し落ちる。
「税理士=怖い
が、一段落ちるんです」
ヤマゲンは、
イチゴポッキーを一本取り、
田中の前に差し出した。
「どうぞ」
「……いただきます」
甘い。
思っていたより、
ずっと甘い。
そして、
肩の力が抜けた。
「ここからな」
ヤマゲンは、
ポッキーを机に置いた。
空気が、
はっきり変わる。
「契約した以上」
資料を開く。
「本音で行きます」
「遠慮、
いりません」
「数字、
全部出してもらいます」
売上。
原価。
人件費。
「“だいたい”は、
禁止です」
田中は、
小さく息をのんだ。
でも、
嫌な感じはしなかった。
「安心してください」
ヤマゲンは、
ネクタイのイチゴを
軽く叩く。
「緩めるところは緩める。
締めるところは締める」
「その切り替えのための
イチゴですわ」
田中は、
赤い箱とネクタイを見た。
さっきまで感じていた
違和感。
それが、
安心感に変わっている。
「ヤマゲンさん」
そう呼ぶと、
ヤマゲンは満足そうにうなずいた。
「ええですね」
「ほな、改めて」
資料を閉じる。
「顧問税理士・
大和源太郎として、
本気で行きます」
田中は、
もう一度、
イチゴポッキーをかじった。
甘い。
でも、
この先の話は、
きっと甘くない。
それが、
なぜかはっきり分かった。
田中 恒一は、少しだけ背筋を伸ばしていた。
机の上には、
白い紙が一枚。
よく見れば、
それは契約書だった。
「……これが、
顧問契約書ですか」
田中がそう言うと、
先生は、軽くうなずいた。
「そうですわ」
紙を指でトントンと叩く。
「別に、
怖いもんちゃいます」
「……正直、
契約書って聞くと、
ちょっと身構えます」
先生は、すぐに笑った。
「分かります分かります」
「大阪人な、
“縛られる”って言葉、
生理的に嫌いですから」
田中も、
思わず苦笑した。
「せやからな」
先生は、少し身を乗り出す。
「これは、
縛るための紙やないです」
「ほな、
何のためですか」
「逃げんため
ですわ」
即答だった。
「僕も、
田中さんも」
少し間を置いて続ける。
「ええ加減な関係に
ならんための紙です」
田中は、
その言葉を
静かに受け止めた。
ここまでの相談は、
確かに、どこか様子見だった。
「料金も、
ここに書いてますけど」
先生は、あえて淡々と言った。
「正直な話な」
「一番大事なんは、
金額やない」
田中は、
少し意外そうに顔を上げた。
「これから先は」
先生は、
声のトーンを落とす。
「田中さんが
迷ったときに」
「僕が
“それは違う”って
言う立場になる
いうことです」
田中の胸が、
少しだけ締まった。
「優しいことばっかり
言う税理士、
ちゃいますよ」
「嫌われ役も、
ちゃんとやります」
田中は、
小さく息を吐いた。
「……それ、
もう分かってます」
「でしょ」
先生は、
軽く笑った。
そして、
契約書の最後のページを
田中の前に差し出す。
「ここに、
田中さんの名前」
指をずらす。
「で、
ここに、
僕の名前が入ります」
田中は、
ペンを持ったまま、
ふと止まった。
「……そういえば」
「先生のお名刺、
頂いてませんでした」
その瞬間、
先生は少しだけ
間を置いた。
「ああ、
確かに」
軽く咳払いをしてから、
さっと差し出した。
「改めまして
大和 源太郎(やまと げんたろう)
です」
「……大和、
源太郎」
「ちょっと硬いでしょ」
大和源太郎は、
少し照れたように笑う。
「顧問先の社長さんからは
「ヤマゲン
って呼ばれてますねん」
ヤマゲン。
田中は、
その名前を
頭の中で転がしてみた。
妙に、しっくり来た。
「ヤマゲン先生、
ですね」
「先生、
要らんです」
源太郎は、即座に言った。
「仕事の話は
税理士・大和源太郎」
「それ以外は
ヤマゲン」
「そのくらいが
ちょうどええですわ」
田中は、
ゆっくりと
自分の名前を書いた。
そして、
源太郎の署名を見る。
そこには、
崩れすぎていない、
でも迷いのない字で
「大和 源太郎」と書かれていた。
「……名前、
書くと」
田中が言う。
「急に、
現実味出ますね」
「出ます」
源太郎は、
はっきりとうなずいた。
「せやから、
ここで書くんです」
「覚悟、
共有するために」
契約書を閉じ、
源太郎は立ち上がった。
「ほな、田中さん」
「ここからは」
一呼吸おいて、
こう言った。
「遠慮なしで行きましょ」
田中は、
静かにうなずいた。
先生でも、
税理士でもない。
大和源太郎――ヤマゲン。
この人となら、
厳しい話も、
ちゃんと受け止められる。
田中は、
そう思っていた。
机の上に、二つの紙が並んでいた。
一つは、税務署からの「お尋ね」。
もう一つは、白紙のメモ用紙。
田中 恒一は、しばらく、その二つを見比べていた。
一人で書く。
それも、できなくはない。
材料費が増えた理由。
外注費の内容。
家事按分の考え方。
先生と話したことを思い出せば、
文章にはできそうだ。
「……自分で、やるか」
そう呟いて、
ペンを取った。
まずは、材料費。
〈前年より受注量が増加したため〉
書いてみる。
間違ってはいない。
次に、外注費。
〈一時的に作業量が増えたため〉
これも、嘘ではない。
家事按分。
〈工場兼自宅のため、合理的に按分〉
――合理的。
便利な言葉だ。
でも、その中身は、
どこか薄い。
「……これで、ええんか?」
田中は、
ペンを止めた。
書けてはいる。
でも、
守られている感じがしない。
もし、この文書で、
税務署から追加の質問が来たら。
もし、
「具体的には?」
と聞かれたら。
そのたびに、
自分一人で、
判断しなければならない。
正解かどうか、
分からないまま。
田中は、
ふと、先生の言葉を思い出した。
責任。
それは、
怒られるかどうか、
という話だけじゃない。
この判断が、
数年後の自分を、
苦しめないかどうか。
そこまで、
背負えるかどうか。
田中は、
スマートフォンを手に取った。
先生の番号を開いて、
少しだけ、迷う。
無料で教えてもらえる、
そんな段階は、
もう終わった。
それは、
今日の田中にも、
はっきり分かっていた。
それでも。
田中は、電話をかけた。
「先生……
あの、やっぱり、
一人で書くのは、不安で」
電話の向こうで、
先生は、すぐには答えなかった。
少しの沈黙。
そして、
落ち着いた声。
「正直に言いますね」
田中は、息を飲んだ。
「その感覚、
めちゃくちゃ大事ですわ」
否定じゃなかった。
「一人で書くいう選択も、
全然アリです」
「でもな」
一拍。
「不安なまま出すのが、
一番あかん」
田中は、
無言でうなずいた。
「お金払ういうんはな」
先生は、続けた。
「作業代やないです」
「……」
「判断を一人で背負わんでええ、
いう状態を買う
いうことです」
田中の胸の奥で、
何かが、
すとんと落ちた。
申告書を作る。
文章を書く。
それだけなら、
自分でもできる。
でも。
この判断でいいのか。
もっといい書き方があるんじゃないか。
あとから問題にならないか。
その不安を、
一人で抱えなくていい。
「田中さん」
先生は、
ゆっくり言った。
「ここから先、
一緒にやるなら」
「僕は、
“答え方”まで考えます」
田中は、
深く、息を吐いた。
「……お願いします」
言葉は、
自然に出た。
決断した、というより、
納得した、
そんな感じだった。
電話を切ったあと、
田中は、
机の上の白紙を、
そっと裏返した。
一人で書く、という選択。
それは、
「できるかどうか」ではない。
「背負うかどうか」
の選択なのだと、
田中は、はっきり理解した。
その封筒は、前よりも薄かった。
色も、文字も、見慣れている。
差出人は、また――税務署。
「……今度は何や」
田中 恒一は、机の上に封筒を置いたまま、
すぐには開けなかった。
嫌な予感、というほどではない。
でも、軽くもない。
ようやく開けると、
中には一枚の紙。
「お尋ね」
調査、ではない。
呼び出し、でもない。
ただ、
いくつかの質問が並んでいる。
・材料費が前年より増加している理由
・外注費の内容と支払先
・家事按分の考え方
「……来たな」
心臓が、
一段、強く打った。
これまでやってきたことが、
頭の中を駆け巡る。
理由はある。
説明も、たぶんできる。
でも。
これを、自分の判断で返してええんか?
田中は、
先生に電話をかけた。
「先生、
税務署から“お尋ね”来ました」
電話の向こうで、
先生は、すぐに答えた。
「ええ。
よくあるやつですわ」
少し安心しかけた、その瞬間。
「せやけどな」
一拍。
「ここから先は、
立場、変わります」
田中は、言葉を失った。
「……どういう意味ですか?」
先生の声は、
いつもより、少し低かった。
「今まではな」
ゆっくり、言葉を選ぶ。
「考え方を整理したり、
一般論を話したり、
“自分で判断するための材料”を
渡してただけです」
それは、確かにそうだ。
「でも、この紙な」
先生は続ける。
「税務署に出す文書ですわ」
田中は、
手元の紙を見つめた。
「ここに何を書くかで、
結果が変わる可能性があります」
胸の奥が、
きゅっと締まる。
「どこまで説明するか
どういう言葉を使うか
それはな」
先生は、はっきり言った。
「責任が乗る判断です」
沈黙。
電話口で、
田中の呼吸音だけが聞こえる。
「田中さん」
先生は、
少しだけ声を和らげた。
「ここまでは、
無料でええと思ってました」
はっきりと、
そう言った。
田中は、
思わず姿勢を正した。
「でもな」
「これから先は、
僕の名前と判断が乗ります」
名前。
その言葉が、
重く響いた。
「タダでやる、
いう話やないです」
先生は、淡々と言った。
「逆に言うたらな」
一拍。
「ここから先は、
ちゃんと僕の仕事として、
一緒にやれます」
田中は、
何も言えなかった。
“断られた”感じは、しない。
でも、
“線を引かれた”のは、分かる。
「急に決めんでええです」
先生は続けた。
「自分で書いて出す、
いう選択もあります」
少し間を置いて、
こう付け加えた。
「せやけどな」
「一緒にやるなら、
立場、はっきりさせましょ」
電話を切ったあと、
田中は、しばらく動けなかった。
今まで、
先生は“助言者”だった。
でも今、
その先に、
もう一段、深い場所があると知った。
責任。
判断。
立場。
それは、
お金の話でもある。
でも、それ以上に。
誰と、この事業を進めるのか
という話だった。
田中は、
お尋ねの紙を、
もう一度読み返した。
質問は、
さっきより、
少し違って見えた。
これは、
試されている。
数字じゃない。
向き合い方を。
決算書は、きれいにまとまっていた。
売上。
経費。
利益。
どの数字も、
会計ソフトの中では、
きちんと整列している。
「……ちゃんと合ってるよな」
田中 恒一は、
何度目か分からない確認をした。
ズレはない。
計算ミスもない。
それでも、
胸の奥に、
小さな不安が残る。
数字は合っている。
でも、
説明できるかと聞かれると、
自信がない。
先生との打ち合わせ。
田中は、決算書を差し出した。
「数字自体は、
大丈夫そうですよね?」
先生は、しばらく黙って資料を見ていたが、
やがて顔を上げた。
「ええ。
数字は、きれいですわ」
その言葉に、
田中は、少し安心しかけた。
「せやけどな」
一拍。
「税務署が見るんは、
数字そのものちゃいます」
田中は、思わず眉をひそめた。
「……え?」
先生は、ペンを取り、
決算書の一部を指した。
「この材料費、
去年より増えてますよね」
「はい。
仕事量が増えたんで」
「それ、
口で説明できます?」
田中は、言葉に詰まった。
増えた理由は、分かっている。
でも、
それを順序立てて、
第三者に説明することは、
考えたことがなかった。
「税務署な」
先生は、淡々と言った。
「合ってるかどうかより、
納得できるかどうか
見てきます」
納得。
「急に増えた数字があったら、
『なんで?』
って思うの、
人として普通ですわ」
田中は、
自分が税務署側の立場だったら、
と想像してみた。
確かに、
理由の分からない数字は、
気になる。
「帳簿ってな」
先生は、少し声を落とした。
「記録である前に、
説明書です」
「説明書……」
「はい。
この会社は、
どうやって稼いで、
どうやって使ってるか」
田中は、
決算書を見つめ直した。
そこには、
数字しか書いていない。
理由も、背景も、
載っていない。
「せやからな」
先生は、続けた。
「メモが、
めちゃくちゃ大事になります」
「メモ、ですか」
「ええ。
『大型案件が増えた』とか、
『材料価格が上がった』とか」
ほんの一言でいい。
でも、それがあるだけで、
数字は、急に意味を持つ。
「数字はな」
先生は、ゆっくり言った。
「嘘はつかへんけど、
何も語らへん」
田中は、
その言葉を、
静かに噛みしめた。
合っている。
それだけでは、足りない。
説明できる。
それが、次の段階だ。
打ち合わせの帰り道、
田中は、ノートを開いた。
材料費が増えた理由。
外注費が一時的に増えた背景。
設備修理の経緯。
今なら、思い出せる。
でも、
数年後はどうだろう。
書いておかないと、
自分自身が説明できなくなる。
その夜、
田中は、帳簿の横に、
小さなメモ欄を作った。
数字の横に、
言葉を添える。
たったそれだけで、
帳簿が、
急に“生き物”のように感じられた。
数字は合っている。
でも、それだけじゃない。
納得できるかどうか。
それが、
次に越える壁だと、
田中ははっきり理解した。
決算書の数字を見ながら、
田中 恒一は、首をひねっていた。
「……あれ?」
会計ソフトの画面。
青色申告特別控除――10万円。
その表示を見て、
思わず画面を二度見した。
「65万円、ちゃうんか……?」
青色申告だ。
帳簿も付けている。
ソフトも使っている。
条件は、そろっているはずだった。
それなのに、
なぜか、10万円。
田中は、
先生の顔を思い浮かべ、
すぐに電話をかけた。
「先生、
青色の65万円控除って……
自動で取れるもんちゃうんですか?」
電話の向こうで、
先生は、少し笑った気配を見せた。
「それ、
めちゃくちゃ多い勘違いですわ」
田中は、苦笑した。
「やっぱり……」
「ほな、
一個ずつ、確認しましょか」
先生の声は、落ち着いている。
「まずな、
複式簿記で付けてはります?」
「……たぶん」
「“たぶん”は、
だいたいアウトです」
先生は、はっきり言った。
「会計ソフト使ててもな、
設定間違ってたら、
単式扱いになります」
田中は、思わず背筋を伸ばした。
「次」
先生は続ける。
「期限内に申告してます?」
「……去年、
ちょっと遅れました」
「それも、
即アウトです」
田中は、額に手を当てた。
「あと、
e-Taxか、電子帳簿保存
やってはります?」
「……やってないです」
「ほな、
65万円は取れません」
淡々とした口調が、
逆に、重く響く。
「条件はな、
ちゃんと書いてあるんです」
先生は言った。
「せやけど、
誰も読まへん」
田中は、
思わず笑ってしまった。
笑えたのは、
責められていないからだ。
「つまりな」
先生は、整理するように言った。
「65万円控除は、
ご褒美みたいなもんです」
「ご褒美?」
「ちゃんと帳簿付けて、
期限守って、
データで出した人だけの、な」
田中は、
ゆっくりうなずいた。
楽して取れるものじゃない。
でも、
無理なものでもない。
「正直な話」
先生は、少し声を落とした。
「これ、
毎年何十万円も差が出ます」
「……ですよね」
「せやから、
“取れてへん”って分かった時点で、
もう半分は成功ですわ」
田中は、
その言葉を噛みしめた。
知らずに損する。
それが、一番怖い。
「今年からな」
先生は言った。
「設定も、
申告方法も、
全部そろえましょ」
「はい」
返事は、迷わなかった。
電話を切ったあと、
田中は、決算書をもう一度見た。
そこにあるはずだった、
65万円。
今までは、
「取れなかった損」
だと思っていた。
でも今は、違う。
「取れる形を知らなかっただけ」
そう思えた。
知れば、
準備できる。
準備すれば、
結果は変わる。
青色申告65万円控除は、
魔法じゃない。
ちゃんとやった人にだけ、
ちゃんと返ってくる制度
なのだと、
田中は、ようやく腹落ちした。
その人は、よく工場に来ていた。
元・同僚。
独立する前、同じ会社で働いていた男だ。
「今、ちょっと時間あんねん。
手、足りてる?」
そう言われると、
田中 恒一は、つい甘えてしまう。
「じゃあ、この加工、お願いできる?」
図面を渡す。
作業は、慣れたものだ。
終わったあと、
封筒に現金を入れて渡す。
「助かったわ」
「ええよ、ええよ」
その関係が、
もう何度も続いていた。
月末。
田中は、会計ソフトの前で手を止めていた。
「……これ、外注費でええよな?」
請求書はない。
領収書もない。
あるのは、
田中の記憶と、
作業が終わった事実だけ。
外注。
便利な言葉だ。
社員じゃない。
家族でもない。
だから、
給与じゃない――
そう思っていた。
その夜、
田中は先生に電話をした。
「先生、
知り合いに手伝ってもろた場合って、
外注費でいけますよね?」
電話の向こうで、
先生は、少しだけ間を置いた。
「状況、教えてもらえます?」
田中は、
作業内容、頻度、支払い方を説明した。
しばらくして、
先生が言った。
「……田中さん」
声は穏やかだが、
トーンが、少し変わった。
「それ、
外注ちゃいますわ」
田中は、言葉を失った。
「え……?」
「外注いうんはな」
先生は、ゆっくり説明した。
「仕事のやり方を、
相手が自分で決めてる
状態です」
「やり方……」
「時間も、
指示も、
道具も」
一つずつ、言葉を置く。
「田中さん、
この人に、
『何時から来て』
『この手順でやって』
言うてません?」
田中は、
無言でうなずいた。
「それな」
先生は、はっきり言った。
「限りなく、給与です」
胸の奥が、
ずしんと重くなった。
「請求書があるかどうかやないんです」
先生は続ける。
「実態ですわ」
・指揮命令している
・継続的に来ている
・報酬が時間や作業量ベース
・他の仕事を断って来ている
「これ、
雇われてるのと同じ
判断されます」
田中は、
思わず机に肘をついた。
「知らんかった……」
「知らんでも、
関係ないです」
先生は、きっぱり言った。
「税務も、労務も、
そこはシビアです」
「じゃあ、
どうしたら……」
先生は、少し声を和らげた。
「二択です」
一つ。
「ほんまの外注にする」
「契約書作って、
やり方は相手に任せる。
成果物で払う」
もう一つ。
「給与として扱う」
「源泉徴収して、
帳簿に載せる」
田中は、
大きく息を吐いた。
「中途半端が、
一番あかん、ってことですね」
「その通りですわ」
先生は、少し笑った。
「みんな、
楽なとこ取り
したなるんです」
楽に見える。
でも、
後で一番痛い。
「外注費と給与の違いってな」
先生は、最後にこう言った。
「呼び方やなくて、
関係性の話です」
電話を切ったあと、
田中は、工場の中を見渡した。
自分が指示を出し、
段取りを組み、
責任を負っている。
その中で、
手伝ってもらっている人がいる。
なら、
それにふさわしい扱いを
しなければならない。
翌日、
田中はその元同僚に電話をした。
「なあ、
これからの話なんやけど」
少し、緊張した声。
「ちゃんと、
形、決めよか」
相手は、
一瞬黙ってから、言った。
「……それが、ええと思うわ」
田中は、電話を切り、
ノートを開いた。
・外注か、給与か
・指示の出し方
・支払い方法
曖昧にしてきた関係に、
言葉を与える。
それは、
縛ることじゃない。
守るための整理
なのだと、
田中は、少し分かった気がした。
工場の片隅で、妻が伝票を並べていた。
「これ、今月分。
請求書も、そろってるで」
田中 恒一は、旋盤の手を止めた。
「助かるわ。
ほんま、毎回ありがとうな」
独立してから、
妻はずっと、事務を手伝ってくれている。
電話対応。
請求書の発行。
材料の発注。
気づけば、
“ついで”と呼べる量ではなくなっていた。
「なあ……」
田中は、少し間を置いてから言った。
「これ、
ちゃんと給料として出した方がええんかな」
妻は首をかしげた。
「うーん。
家計は一緒やし、
別にええんちゃう?」
田中は、
その言葉に、すぐにはうなずかなかった。
――それ、
税務的には、
通らへん気がする。
その夜、
田中は先生に電話をかけた。
「先生、
家族に給料払う話なんですけど……
条件、ありますよね?」
電話の向こうで、
先生は少し間を置いてから答えた。
「あります。
しかも、結構はっきり」
田中は、背筋を伸ばした。
「まず前提としてな」
先生の声は、落ち着いている。
「田中さん、
青色申告の届け、出してはります?」
「……出してます」
「ほな、スタートラインには立ってます」
少し、安心した。
「でもな」
先生は、続けた。
「それだけやと、足りません」
「……え?」
「家族に給料を“経費”にしたいならな」
一拍。
「青色専従者給与の届出書
これ、出してなあきません」
田中は、思わずメモを取った。
「出してないと……?」
「どれだけ働いてもろても、
原則、経費にはなりません」
言葉は穏やかだが、
内容は、はっきりしていた。
「じゃあ、
白色申告の場合は?」
田中が聞くと、
先生は少し苦笑した。
「白色でもな、
一応、控除はあります」
「一応、って……」
「上限、かなり低いですわ」
田中は、すぐ理解した。
今の仕事量。
今の関わり方。
それを考えると、
実務的ではない。
「つまりな」
先生は、整理するように言った。
「家族に給料払いたいなら」
・青色申告をしていること
・青色専従者給与の届出を出していること
・仕事内容と金額が妥当であること
・実際に支払っていること
「この四つ、全部そろって、初めて“経費”です」
田中は、ゆっくりうなずいた。
「知らんまま払ってたら……」
「アウトですわ」
先生は、きっぱり言った。
「悪気なくても、
否認されます」
その言葉は重かった。
でも、不思議と怖さはなかった。
理由が、はっきりしたからだ。
「なあ、田中さん」
先生は、少し声を和らげた。
「これな、
節税の話やないです」
また、その言葉だ。
「仕事として頼んでるなら、
制度も、ちゃんと使いましょ」
電話を切ったあと、
田中は工場に戻った。
「なあ」
妻に声をかける。
「給料の話、
ちゃんと整理せなあかんみたいや」
「どういうこと?」
「青色申告で、
ちゃんと届出せんと、
経費にならへんねん」
妻は、少し驚いた顔をした。
「そんなん、知らんかったわ」
「俺もや」
二人で、少し笑った。
その夜、
田中はノートに書いた。
・青色専従者給与の届出
・業務内容
・時間
・金額
・振込方法
感覚じゃない。
情でもない。
制度を知った上で、
どう使うかを決める。
家族に払う給料は、
“なんとなく”では、成り立たない。
事業として、
ちゃんと向き合っているかどうか
それが、
問われているのだと、
田中は初めて腑に落ちた。
工場のシャッターを半分下ろすと、
中は、仕事と生活の境目が、ますます分からなくなる。
田中 恒一の工場は、自宅の一角にあった。
旋盤の音が止まると、
そのまま台所の物音が聞こえてくる。
「……ここ、全部仕事ってわけでもないしな」
月末。
田中は、光熱費の請求書を広げていた。
電気。
水道。
ガス。
どれも、家と工場が一緒だ。
会計ソフトの画面には、
「家事按分」という言葉が表示されている。
「……按分、ね」
何となく、
半分くらい?
そんな感覚で、今までやってきた。
理由は、説明できない。
ただ、
「それくらいかな」
という気持ち。
田中は、先生の顔を思い出し、
スマートフォンを手に取った。
「先生、家事按分って……
正直、どこまでが正解なんですか」
少し間があって、
返事が来た。
「正解はな、
一個やないです」
思わず、画面を見つめる。
「え?」
「大事なんはな、
数字より理由ですわ」
先生は、電話口で続けた。
「たとえばやで。
工場、何時間動かしてます?」
「平日は、だいたい八時間くらいです」
「ほな、
家は、二十四時間使てますよね」
田中は、黙ってうなずいた。
「面積は?」
「工場が、全体の三割くらいです」
「ええですね」
先生の声は、相変わらず落ち着いている。
「ほなな、
時間と面積、どっちを基準にするか
決めたらええんです」
「……どっちが正しい、じゃなくて?」
「せやから、
筋が通ってるかです」
田中は、メモを取りながら聞いた。
「半分、っていうのがな」
先生は、少し笑った。
「いちばん多いんですわ。
理由のない半分」
胸が、ちくりとした。
「それ、
税務署に聞かれたら、
どう説明します?」
田中は、言葉に詰まった。
「……できない、です」
「でしょ」
先生は、優しく言った。
「按分いうんはな、
ズルするためのもんちゃいます」
一拍置いて、続ける。
「自分で、
『ここまでは仕事』
って線を引くためのもんです」
田中は、請求書を見つめ直した。
電気を一番使うのは、
機械が回っている時間だ。
水道も、
冷却や清掃で、
工場の使用が多い。
ガスは、
ほとんど生活だ。
「……電気と水道は、
工場三割、
ガスは、ほぼゼロ、
でいけそうですね」
「ええと思います」
先生は、即答した。
「その代わりな、
メモ残しときましょ」
「メモ?」
「はい。
『機械稼働時間が長いため』とか、
『工場面積が三割のため』とか」
田中は、ノートに書き込んだ。
理由を書く。
考え方を書く。
「これな」
先生は、少し声を落とした。
「税務署のため、
やないです」
「……え?」
「未来の田中さんのためですわ」
数年後。
今のことを、
正確に覚えている自信はない。
でも、
理由が書いてあれば、
自分でも、納得できる。
「家事按分ってな」
先生は、最後にこう言った。
「あいまいなもんを、
あいまいなまま放っとかん
ための作業です」
電話を切ったあと、
田中は、静かに入力を始めた。
半分、ではない。
感覚、でもない。
自分なりの、
説明できる数字。
入力を終えたとき、
胸の奥に、
小さな達成感が残った。
完璧じゃない。
でも、
逃げていない。
家と工場。
生活と仕事。
混ざり合っているからこそ、
考える意味がある。
田中は、画面を閉じ、
深く息を吐いた。
あいまいな壁は、
壊すものじゃない。
言葉で、
説明できるようにするもの
なのだと、
少し分かった気がした。
翌週、田中 恒一は、先生の事務所をもう一度訪れていた。
前回と同じ席。
同じ机。
けれど、気持ちは少し違う。
田中は、机の上に新しい通帳を置いた。
真新しい、事業用口座。
「……とりあえず、作ってきました」
先生は通帳を一瞥して、軽くうなずいた。
「ええですね。
これだけで、もう一歩前進ですわ」
田中は、少し照れくさそうに笑った。
「正直、
こんなんで何が変わるんかな、って思ってました」
先生は、椅子に深く腰掛け、
腕を組んだ。
「ほな、聞きますけどな」
一拍。
「今、通帳の残高見て、
全部使ってええお金や、思います?」
田中は、はっとして、首を振った。
「……思わないです」
「でしょ」
先生は、ペンを取り、
紙に大きく二つの丸を書いた。
ひとつは「事業」。
もうひとつは「生活」。
「今まではな、
これ、重なってたんですわ」
二つの丸を、ぐっと重ねる。
「せやから、
残高見た瞬間に、
判断が狂う」
次に、丸を少し離した。
「分けたらな、
考えんでええことが増えるんです」
「考えんでええこと……?」
「そうですわ。
これは事業。
これは生活。
迷う回数が、減る」
田中は、その紙を見つめた。
確かに。
昨日、新しい通帳を見たとき、
変な安心感があった。
金額は、決して多くない。
でも、
「事業のお金だけ」が、
そこに並んでいた。
「それからな」
先生は、もう一つ丸を書き足した。
そこには、こう書かれている。
――税金。
「これ、
まだ払ってへんけど、
もう“あなたのお金ちゃう”
思といた方がええです」
田中は、思わず苦笑した。
「……耳が痛いです」
「みんな、そう言わはります」
先生は、さらりと言った。
「税金を怖がる人ほどな、
実は、
自分のお金やと思って使てしまう
ことが多いんです」
その言葉が、
過去の自分に、ぴたりと重なった。
売上が入ったとき。
残高が増えたとき。
あれは、
全部“自由に使えるお金”
だと思っていた。
「分ける、いうんはな」
先生は、少し声を落とした。
「締め付けることやないです」
田中を見る。
「安心するためですわ」
その言葉に、
胸の奥が、すっとした。
管理。
制限。
我慢。
そんなイメージばかりだった。
でも、これは違う。
不安を、
外に出す作業なのだ。
「正直な話な」
先生は、少し笑った。
「これできひんまま、
十年やってる社長さんも、
ぎょうさんいます」
「……十年」
「せやけどな、
田中さんは、
まだ三年目ですわ」
田中は、その言葉を噛みしめた。
「今、気づけたんは、
めちゃくちゃ早いです」
事務所を出るとき、
田中のスマートフォンが震えた。
銀行からの通知。
事業用口座への、
初めての入金。
金額は、小さい。
でも。
田中は、画面を見て、
はっきりと思った。
――これは、
仕事のためのお金だ。
生活費とは、違う。
税金とも、違う。
たったそれだけのことが、
こんなにも、
頭を軽くするとは思わなかった。
分ける。
ただ、それだけ。
でも、その一歩は、
田中の中で、
確かに、世界を分け始めていた。
事務所は、想像していたよりも静かだった。
田中 恒一は、少し早めに着き、
入口の前で深呼吸をした。
税理士事務所。
もっと堅くて、
もっと“正される場所”だと思っていた。
「どうぞ」
扉を開けると、
電話口で聞いた、あの落ち着いた声の主がいた。
年齢は、田中とそう変わらないだろう。
白衣でもスーツでもない、
少しラフな服装。
「田中さんですよね。
今日はわざわざ、ありがとうございます」
そう言って、軽く頭を下げる。
――この人が、“先生”。
そう呼ぶのは、まだ少し照れくさい。
席に着き、
田中は持ってきた資料を、
机の上に並べた。
通帳のコピー。
会計ソフトの試算表。
レシートの束。
「……正直、
どこから見てもらったらええか分からなくて」
そう言うと、先生は、
書類には目を落とさず、
田中の方を見た。
「ほなな、数字の前に
一個だけ聞いてもええですか」
少し間を置いて、
先生は続けた。
「田中さん、
今いちばん、不安なんは何です?」
田中は、言葉に詰まった。
税金。
お金。
帳簿。
どれも正解のはずなのに、
どれも、しっくり来ない。
しばらく考えてから、
ゆっくり口を開いた。
「……ちゃんとやってる“つもり”やのに、
間違ってたらどうしよう、って」
先生は、小さく頷いた。
「それな。
ちゃんと考えてはる証拠ですわ」
その一言で、
胸の奥が、じんわりと温かくなった。
怒られなかった。
否定されなかった。
先生は、ようやく資料に目を向けた。
ページをめくりながら、
淡々と話す。
「黒字ですね。
仕事は、ちゃんと取れてはります」
次のページ。
「せやけどな、
現金は減りやすい形してますわ」
田中は、思わず身を乗り出した。
「……やっぱり、そうですか」
「ええ。
製造業では、ようある話です」
先生は、ペンを取り、
紙に、簡単な図を描いた。
売上。
材料。
設備。
税金。
矢印が、
少しずつ、ズレていく。
「利益いうんはな、
結果なんですわ」
一拍置いて、続ける。
「でも現金は、
流れなんです」
田中は、
その図を見つめた。
今まで、
感覚だけで感じていた違和感が、
形になっていく。
「今日はな、
全部いっぺんに解決せんでええです」
先生は、そう言って、
ペンを置いた。
「まずは、
分けましょ」
「分ける……?」
「事業のお金と、
生活のお金。
それからな、
まだ払ってへん税金」
田中は、はっとした。
財布。
通帳。
頭の中。
全部、混ざっていた。
「これができるだけでな、
不安、半分になります」
数字の話をしているはずなのに、
先生の言葉は、
なぜか、心の整理のようだった。
帰り際、
田中は、思わず聞いた。
「……先生って、
いつも、こんな話し方なんですか?」
先生は、少し笑った。
「数字いうんはな、
人の“結果”ですさかい」
「結果……?」
「生き方とか、
選択とか、
そういうもんの、ですわ」
田中は、
その言葉を、
何度も、頭の中で繰り返した。
税理士は、
数字を正す人だと思っていた。
でも、この人は。
数字の向こう側を、
一緒に見よか、言うてくれる人
なのかもしれない。
事務所を出たとき、
空は、少し明るくなっていた。
問題は、まだ山ほどある。
でも。
進む方向だけは、
はっきりした気がした。
田中 恒一は、名刺を手に取ったまま、しばらく動かなかった。
そこには、黒い文字で、肩書きと名前。
そして、その下に小さく――税理士。
「……電話、するか」
独り言のように呟いて、
スマートフォンを手に取る。
すぐには、番号を押せなかった。
今さら、何を聞けばいいのか。
どこから説明すればいいのか。
黒字なのに苦しい。
利益が出ているのに、お金がない。
そんなことを言って、
笑われないだろうか。
田中は、一度、通帳アプリを閉じ、
ノートを開いた。
利益と現金。
同じだと思っていた二つの言葉を、
横に並べて書く。
利益。
現金。
しばらく見つめて、
線を引いた。
同じじゃない。
そう、はっきり分かる。
利益は、計算の結果だ。
売上から経費を引いた、数字の上の答え。
現金は、
実際に、
出入りするお金。
材料を買えば、出ていく。
設備を直せば、出ていく。
税金を払えば、出ていく。
でも、その多くは、
利益が出た“後”に、やってくる。
「……ズレてるんだ」
時間が。
利益は、
今の数字。
現金は、
少し遅れて動く。
そのズレを、
今まで、ちゃんと意識してこなかった。
田中は、名刺の裏に、
小さく書き込んだ。
「利益≠現金」
その瞬間、
少しだけ、気持ちが軽くなった。
分からないまま苦しいのと、
分かって苦しいのとでは、
全然、違う。
そして、
分かってしまった以上、
次にやるべきことも、
うっすら見えてくる。
――聞いてみよう。
田中は、ついに番号を押した。
数回の呼び出し音のあと、
落ち着いた声が、耳に届いた。
「はい、〇〇税理士事務所です」
一瞬、言葉に詰まる。
「あ、あの……製造業をやっている、田中といいます」
自分の声が、少し硬い。
「ええ。どうされました?」
その声は、
思っていたよりも、淡々としていた。
責めるでもなく、
急かすでもなく。
田中は、深呼吸をして、
こう言った。
「黒字なんですが……
お金が、残らなくて」
一拍。
電話の向こうで、
声が、少しだけ、柔らかくなった。
「……それは、多いですね」
その一言で、
田中の肩から、
力が抜けた。
笑われなかった。
否定されなかった。
むしろ、
「よくあること」
として、受け止められた。
「一度、資料を見ながら、
整理しましょうか」
整理。
その言葉が、
妙に、心に残った。
「はい……お願いします」
電話を切ったあと、
田中は、しばらく動けなかった。
問題が、
消えたわけじゃない。
でも。
一人で抱えなくていい
そう思えた瞬間だった。
利益と現金は、別の生き物。
そのことを、
初めて“誰かと共有できた”夜だった。
決算月が近づくと、田中 恒一の気持ちは、少し沈んだ。
売上は悪くない。
むしろ、前年より伸びている。
会計ソフトの画面にも、
はっきりと「黒字」と表示されていた。
「……なのに、だ」
通帳を開く。
数字を見て、眉をひそめる。
思っていたほど、残っていない。
材料費は払った。
外注費も払った。
工具も買った。
それでも、
利益は出ているはずだ。
「黒字って……何なんだ?」
独り言が、誰もいない工場に響く。
田中は、作業台に腰を下ろし、
頭の中で簡単に計算してみる。
売上から、経費を引く。
残ったのが、利益。
理屈は、分かる。
でも、
その“利益”が、
現金として、ここにない。
ふと、去年のことを思い出した。
決算が終わり、
税金の通知が来た日。
「……こんなに?」
思わず声が出た。
黒字だから、税金がかかる。
それは理解している。
けれど、
その支払いのとき、
通帳の残高は、
一気に心細くなった。
そのあと、
設備の修理が重なり、
材料の仕入れが続き、
気づけば、資金はギリギリだった。
「黒字なのに、苦しい……」
その感覚が、
また、胸の奥から顔を出す。
田中は、ノートを開き、
こう書いた。
売上
- 経費
= 利益
その下に、もう一行、書き足す。
利益
- 税金
- 設備投資
- 借入返済
= 現金残高
「……ああ、そういうことか」
黒字でも、
お金は出ていく。
しかも、
税金は、
後から、まとめて来る。
売上が入ったときには、
まだ払っていない。
だから、
「使っていいお金」
だと、錯覚してしまう。
田中は、通帳の数字を、
もう一度見た。
そこに並んでいるのは、
“全部使えるお金”ではない。
まだ払っていない税金も、
もう返すと決まっている借入金も、
全部ひっくるめた数字だ。
そのことに、
今さらながら、気づいた。
「……分かってなかったな、俺」
黒字=安心。
そう思っていた。
でも実際は、
黒字は、
責任の始まりでもある。
税金を払う責任。
お金を管理する責任。
その夜、田中は、
一枚の名刺を眺めていた。
以前、同業者の集まりで、
何気なく受け取ったものだ。
――税理士。
特に印象的な会話をしたわけでもない。
ただ、
「製造業、多いですよ」
そう言われたのを、
なぜか覚えている。
名刺を裏返し、
しばらく考える。
黒字なのに苦しい。
それを、
自分一人で解決しようとしてきた。
でも。
この違和感は、
誰かと一緒に考えるべきものなのかもしれない。
田中は、名刺を机の上に置いた。
まだ、電話はしない。
でも、
しまい込むこともしなかった。
黒字なのに残らない。
その理由が、
少しだけ、輪郭を持ち始めていた。
田中 恒一の財布は、ずっと一つだった。
独立する前から使っている、黒い革の長財布。
現金も、クレジットカードも、
仕事用も生活用も、全部そこに入っている。
「分けるの、面倒だしな」
それが、正直な理由だった。
この日も、午前中は工場で作業をし、
昼前に材料を買いに車を走らせた。
現金払い。
財布から、すっと札を出す。
午後、今度はスーパーに寄る。
夕飯の材料。
牛乳とパン。
同じ財布から、同じように支払う。
夜、家に戻り、通帳アプリを開く。
入金。
出金。
そこには、
仕事のお金と、生活のお金が、
何の区別もなく並んでいた。
「……どこからが、仕事だっけ」
自分でやっておきながら、
自分で分からなくなる。
会計ソフトに向かい、
今日の支出を思い出しながら入力する。
午前の材料費。
これは、間違いなく仕事。
昼のコンビニ。
弁当。
これは……?
工場で食べた。
でも、家でも食べる。
田中は、手を止めた。
財布が一つ。
通帳も一つ。
その状態で、
「これは仕事」「これは生活」
と切り分けるのは、
思っていた以上に、神経を使う。
「……俺、何を基準にやってるんだ?」
ふと、過去の自分を思い出す。
独立したばかりの頃。
お金が入るだけで嬉しかった。
通帳の残高が増える。
それだけで、やっていける気がした。
でも今は違う。
残高はある。
それなりに。
なのに、
「使っていいお金」と
「取っておくべきお金」
その区別が、つかない。
ある月、税金を払ったあと、
急に資金が足りなくなったことを思い出す。
「こんなに持ってたはずなのに……」
原因は、後になって分かった。
全部、同じ通帳に入っていたからだ。
生活で使っていいお金も、
税金のために残すべきお金も、
同じ“残高”として見ていた。
つまり。
自分のお金なのか、事業のお金なのか、
分からなくなっていた。
田中は、通帳の画面を閉じ、
深く息を吐いた。
「これ、どこかで線を引かないと……」
財布を見つめる。
長年使ってきた、慣れた重み。
でも、その便利さが、
今は少し、怖く感じられた。
そのとき、スマートフォンに通知が入る。
銀行からの案内だった。
「事業用口座の開設について」
偶然かもしれない。
でも、タイミングが良すぎた。
田中は、その画面を開いたまま、
しばらく動かなかった。
事業用の口座。
財布を分ける。
お金を分ける。
それは、
「面倒になる」
ことじゃない。
「見えるようになる」
ということだ。
何が残り、
何を守り、
何を使っていいのか。
田中は、画面を閉じる前に、
メモ帳を開き、
こう書いた。
「事業用口座、作る」
たった一行。
でも、それは、
今まで避けてきたことへの、
小さな一歩だった。
そして同時に、
頭の片隅に、
あの存在が、はっきりと浮かび始めていた。
――先生に、聞いてみるか。
まだ会っていない。
まだ話してもいない。
でも、
「一人で決めなくていいことがある」
そう思えるようになった自分に、
田中は少し驚いていた。
その日は、朝から雨だった。
工場の屋根を打つ音が、やけに大きく聞こえる。
田中 恒一は、作業着に着替えながら、
ふと、昨日買ったものを思い出していた。
ホームセンターで買った安全靴。
それから、作業用の手袋。
ついでに、切れていた電球と洗剤。
レジでまとめて払った。
もちろん、クレジットカードだ。
「……これ、どこまで経費だ?」
事務所に戻り、レシートを広げる。
安全靴。
手袋。
洗剤。
電球。
仕事に使っている。
少なくとも、安全靴と手袋は、間違いなく現場用だ。
けれど、洗剤と電球はどうだろう。
家でも使う。
工場でも使う。
「全部まとめて、経費でいいよな……?」
そう思いたい気持ちと、
どこかでブレーキを踏む感覚が、同時にあった。
会計ソフトの画面に、
「消耗品費」という科目が並ぶ。
便利な言葉だ。
何でも飲み込んでくれそうな響きがある。
田中は、一度、全額を入力した。
そして、しばらくその画面を見つめた。
――本当に、全部仕事か?
自分に問いかけてみる。
安全靴は、仕事だ。
手袋も、仕事だ。
でも、洗剤は?
電球は?
仕事に使っている。
けれど、生活とも切り離せない。
「……線引き、ってやつか」
誰に教わったわけでもない。
でも、なんとなく分かる。
税金の世界では、
“使った”だけでは足りない。
“仕事のためかどうか”
それが問われる。
田中は、レシートを二つに分けた。
安全靴と手袋。
洗剤と電球。
後者を見つめながら、ため息をつく。
「払ったのに、経費にならないって……」
理屈は分かる。
でも、感情が追いつかない。
工場で使っているのは事実だ。
仕事がなければ、買っていない。
それでも、
“全部”は通らない。
田中は、洗剤と電球の金額を、
半分だけ経費に入力した。
根拠はない。
ただの感覚だ。
入力を終えたあと、
妙な気持ちが残った。
損をしたような。
でも、少しだけ、胸を張れるような。
「……これ、誰かに聞けたらな」
そう呟いた瞬間、
頭に浮かんだのは、あの検索履歴だった。
「税理士 製造業 相談」
まだ顔も知らない。
声も知らない。
それでも、
“聞いてもいい人がいる”
というだけで、
気持ちは少し軽くなる。
田中は、レシートの余白に、
こう書き足した。
「工場と自宅で共用
使用割合およそ半分」
完璧じゃない。
でも、逃げてはいない。
そう思えた。
雨音が、少し弱まってきた。
シャッターの向こうが、明るくなる。
田中は立ち上がり、
安全靴に足を通した。
仕事と生活。
経費とそうでないもの。
その境目は、
思っていたより、
曖昧で、
そして――
自分で考え続けなければいけない場所
なのだと、
初めて実感していた。
その工具は、急に必要になった。
取引先からの電話は、いつも突然だ。
「田中さん、例の部品、今日中に一部だけでも欲しいんですが」
工場の中を見回し、田中は瞬時に判断した。
今ある工具では、精度が足りない。
――買うしかない。
パソコンを開き、工具メーカーのサイトにアクセスする。
在庫あり。即日発送。
支払い方法は、クレジットカード。
「……頼む」
迷っている時間はなかった。
決済完了の画面を見て、田中は息をついた。
数日後、工具は届き、仕事は無事に終わった。
取引先からも、感謝の連絡が入る。
現場としては、完璧だった。
月末。
会計ソフトを開いた田中は、カード明細を見ながら入力を始めた。
「工具代……これでいいよな」
日付、金額、利用先。
すべて揃っている。
ふと、手が止まった。
――領収書、ダウンロードしてたっけ?
サイトにログインし直す。
注文履歴は残っているが、
「領収書発行」のボタンは見当たらない。
「……まあ、カード明細があるし」
自分に言い聞かせるように、入力を進める。
カードで払った。
仕事に使った。
事実だ。
けれど、頭のどこかで、
昼間ゴミ袋を漁った自分の姿がよみがえった。
その夜、田中はまた検索していた。
「クレジットカード 明細 経費」
出てくる答えは、またしても曖昧だった。
「原則としては不可」
「補助資料としては有効」
「取引内容が分かることが重要」
「……結局、どっちなんだよ」
椅子にもたれ、天井を見る。
カード明細は、
お金を払った証拠ではある。
でも、
何を買ったか
なぜ必要だったか
までは、語ってくれない。
もし聞かれたら、説明できるか?
「この工具は、どんな仕事に使いましたか?」
田中は、少し考えた。
説明はできる。
でも、それは口頭だけだ。
書類として、残っていない。
ふと、昼間見たブログの一文を思い出す。
――証拠が弱いほど、説明は重くなる。
机の上には、
カード明細のコピー。
会計ソフトの画面。
そして、税務署の封筒。
田中は、カード明細の余白に、
ペンで小さくメモを書いた。
「〇〇社向け製品加工用工具
急ぎ対応のためネット購入」
それを書き終えたとき、
少しだけ、肩の力が抜けた。
完璧じゃない。
でも、昨日よりは、前に進んだ気がした。
領収書がない。
カード明細しかない。
それでも、
何も残さないよりは、ずっといい。
田中は、画面を閉じる前に、
もう一度、検索履歴を開いた。
「税理士 製造業 相談 実務」
まだ、連絡はしていない。
でも、その文字列は、
もう“他人事”ではなかった。
田中は思った。
税金は、
ルールを知る前に、
向き合い方を知らなければいけない。
その向き合い方を、
教えてくれる人が、
世の中にはいるのかもしれない、と。
ゴミ出しは、いつも夜だった。
工場のシャッターを下ろし、機械の電源を落とし、
最後に、作業着のポケットを探る。
その日も、同じだった。
油で黒くなったウエス。
メモの切れ端。
くしゃっと丸まったレシート。
「……いらないな」
何気なく、ゴミ袋に放り込んだ。
深く考えたわけじゃない。
ただ、いつもの癖だった。
家に戻って風呂を済ませ、
パソコンの前に座ったとき、
ふと、昼間の材料購入を思い出した。
あれ。
レシート、どこにやったっけ。
胸の奥が、すっと冷えた。
ゴミ袋は、もう玄関の外だ。
明日の朝には、回収される。
「……まさか」
田中は、慌てて靴を履き、外に出た。
街灯の下で、黒いゴミ袋を開く。
鼻をつく油の匂い。
紙くず。
弁当の空箱。
指先が、探している。
――あった。
くしゃくしゃになった、白い紙。
店名も金額も、まだ読める。
ほっとした、その瞬間。
田中は、妙な感情に包まれた。
安心よりも、虚しさだった。
「……俺、何やってるんだろうな」
領収書一枚のために、
夜道でゴミ袋を漁る。
製品を作る技術はある。
取引先からの信頼も、少しずつ積み上げてきた。
それなのに。
家に戻り、机の上にその領収書を置く。
しばらく、じっと見つめた。
これがあれば、経費になる。
なければ、ならない。
たったそれだけの紙が、
こんなにも気持ちを振り回す。
田中は、パソコンを開いた。
「レシート 捨てた 経費」
出てくるのは、
「原則として」
「基本的には」
「ケースバイケース」
どの記事も、最後は曖昧だ。
そのとき、あるブログの一文が目に止まった。
――税金は、ルールではなく“説明の世界”です。
画面を、もう一度読む。
説明。
領収書がないなら、
なぜ必要だったのか。
どこで、何を、誰のために使ったのか。
田中は、ふとノートを開いた。
そして、その材料を使った仕事の内容を、
箇条書きで書き始めた。
・急ぎの追加注文
・通常ルートでは間に合わなかった
・当日の現金払い
・〇〇社向け製品に使用
書き終えて、ペンを置く。
「……これ、最初からやってればよかったのか」
レシートを残す。
メモを残す。
理由を残す。
それは、
税務署のためだけじゃない。
未来の自分のためだと、
初めて気づいた。
机の上には、
税務署の封筒。
そして、検索履歴。
「税理士 相談 製造業」
田中は、画面を見つめたまま、
小さく息を吐いた。
まだ、誰にも会っていない。
まだ、何も始まっていない。
けれど。
「一人で抱えるには、限界がある」
そんな感覚だけが、
確かに、芽生えていた。
月末になると、田中 恒一の机の上は、決まって雑然とした。
加工図面。
見積書。
取引先の名刺。
そして、茶色く油染みのついたレシートの束。
「……また、ない」
田中は、小さく舌打ちした。
先週、急ぎで材料が必要になった。
いつもの商社は時間がかかる。
仕方なく、近所の金属問屋で現金払いをした。
確かに、払った。
確かに、材料はここにある。
けれど――
肝心の領収書が、見当たらない。
「どこで落としたんだ……」
作業着のポケット。
車の助手席。
ゴミ箱。
どこにもない。
会計ソフトの画面には、
「材料費 〇月〇日 〇〇円」
と入力欄が、静かに待っている。
数字は覚えている。
材料の量も、使った現場も、はっきりしている。
でも、証拠がない。
「……まあ、いいか」
田中はそう呟いて、金額を入力した。
今までも、何度もそうしてきた。
製造業は、現場がすべてだ。
段取りが遅れれば、納期に間に合わない。
領収書の管理より、目の前の仕事が優先になる。
――ちゃんと使ってるんだから。
自分に言い聞かせるように、保存ボタンを押す。
けれど、胸の奥に、わずかな引っかかりが残った。
ふと、税務署の封筒が視界に入る。
まだ、開けていない。
もし。
もし、これを見られたら。
「これ、本当に経費ですか?」
そんな声が、頭の中で響く。
田中は、加工台の横に置かれた材料を見た。
削られ、形を変え、
確かに製品の一部になっている。
現場に立つ自分からすれば、
疑いようのない“仕事のための支出”だ。
それなのに。
「……説明しろって言われたら、どうする?」
領収書がない。
請求書もない。
あるのは、田中の記憶だけだ。
その日の夕方、同業者と電話で話す機会があった。
「うちはさ、レシート無いの、結構あるよ。
まあ、バレないって」
軽い調子の声。
田中は笑って相づちを打ったが、
電話を切ったあと、笑顔は残らなかった。
――バレなければ、いい。
その言葉が、妙に重く胸に残った。
領収書がない経費。
それは「ダメ」なのか。
それとも「説明できればいい」のか。
田中には、まだ分からない。
ただ一つ、分かるのは――
「自分は、その線を説明できる自信がない」
ということだった。
机の引き出しを閉めるとき、
レシートの束が、ばらりと崩れた。
拾い集めながら、田中は思った。
税金は、
払うか、払わないか、
という話だけじゃない。
「説明できるかどうか」
それが問われる世界なのだ、と。
その夜。
田中は、初めてこんな、検索をした。
「税理士 相談 どこまで聞いていい」
画面の光が、静かに部屋を照らしていた。
田中 恒一の仕事は、金属部品の加工だった。
町工場、と言うほど大きくはない。
旋盤とフライス盤、それに少し古くなった溶接機。
独立したとき、真っ先に頭にあったのは
「食っていけるかどうか」
それだけだった。
税金のことは、正直、後回しだった。
売上は、初年度が800万円ほど。
二年目で1,200万円。
三年目の今年は、どうやら1,500万円を超えそうだ。
「まだ小さいしな……」
誰に言われたわけでもない。
田中自身が、そう決めつけていた。
――売上が少なければ、税金は大したことない。
――個人事業主なんて、そんなもんだ。
開業届を出したとき、税務署の人は淡々としていた。
怒られもしなかったし、細かい説明もなかった。
だから余計に、
「この程度なら、問題ない」
と思ってしまった。
会計ソフトには、数字を入れている。
材料費。外注費。工具代。
思い出しながら、月に一度まとめて入力する。
それで黒字なら、良し。
赤字なら、まあ仕方ない。
――そうやって、三年が過ぎた。
その夜、田中はネットの記事を読んでいた。
「売上が少ない場合、申告は不要ですか?」
検索結果は、どれも歯切れが悪い。
「ケースによる」
「条件次第」
「一概には言えません」
腹の底が、じわりと冷える。
ふと、机の引き出しを開ける。
中には、束ねた領収書。
油で汚れたレシート。
文字がかすれて、もう読めないものもある。
「……これ、ちゃんとした帳簿って言えるのか?」
自分に問いかけて、答えは出なかった。
売上が少ないから大丈夫。
忙しいから後でやる。
分からないから調べない。
その積み重ねが、
「今は何も起きていない」
という安心感を作っていただけだった。
机の上の、税務署の封筒。
そこには、まだ何も書かれていない。
けれど田中は、初めてはっきりと感じていた。
「問題は、売上の額じゃない」
分かっていないこと、そのものが、
問題なのだと。
その時、スマートフォンが震えた。
取引先からの着信だった。
「田中さん、今度設備、もう一台入れるって話でしたよね?」
設備。
投資。
お金。
田中は、一瞬言葉に詰まった。
「……少し、考えさせてください」
電話を切った後、田中は小さく息を吐いた。
売上が少ないから大丈夫。
そう信じてきた自分が、
急に、心もとなく思えた。
知らないまま進むのは、
思っていたより、ずっと怖い。
その封筒は、ある朝、何気なくポストに入っていた。
白くて、少し厚みがあって、差出人には淡々とこう書かれている。
――税務署。
田中 恒一は、その文字を見た瞬間、胸の奥がきゅっと縮むのを感じた。
まだ何も起きていない。
なのに、心臓だけが先走る。
「……なんだよ、もう」
独り言が、事務所代わりの自宅リビングに落ちた。
田中は個人事業主だ。
独立して三年目。売上は少しずつ伸びている。
仕事は忙しい。依頼も増えている。
なのに、なぜか気持ちは晴れない。
黒字だと、帳簿には書いてある。
けれど、通帳を見ると、思ったほどお金は残っていない。
「こんなはずじゃ……」
封筒は、まだ開けていない。
ただ机の上に置いてあるだけだ。
開ければ、何かが始まってしまう気がして。
税金。
それは田中にとって、「よく分からないけれど、怖いもの」だった。
ちゃんと申告しているつもりだ。
会計ソフトも入れている。
ネットで調べながら、見よう見まねでやってきた。
――たぶん、大丈夫。
その「たぶん」が、胸の奥で何度も反響する。
事業を始めたときは、こんなことは考えなかった。
仕事が取れるか。食べていけるか。
考えていたのは、それだけだった。
いつの間にか、
「税金が怖い」
という感情だけが、後から静かに追いついてきた。
田中は、封筒に手を伸ばし、止めた。
まだだ。
今日は忙しい。
後でいい。
そう思いながらも、視線は何度もそこに戻る。
税金は、まだ来ていない。
でも、不安だけは、もうここにあった。
――知らない、というだけで。
その日の夜。
田中は、パソコンを開き、検索窓にこう打ち込んでいた。
「税金 よく分からない 不安」
それが、すべての始まりだった。
竹岡税務会計事務所
経営が見えない!を数字でクリアに。
まずは、お気軽に無料相談を。
電話番号:090-7499-8552
営業時間:10:00~19:00
定休日 : 土日祝
所在地 : 大阪府富田林市須賀1-19-17 事務所概要はこちら