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2026/02/03
連続税務小説 ヤマゲン 第34話 「夜のカネと、昼の帳簿と、そして」  

 夜。
 工場のシャッターを下ろしたあと、
 田中 恒一は、車を市内へ走らせた。

 
 家とは逆方向。
 ハンドルを握る手に、

 少しだけ力が入る。


 その店は、
 派手ではない。


 看板も控えめで、
 入口はどこか落ち着いている。


 クラブ・リバプール


 田中が、
 ここに通うようになったのは、
 いつからだっただろう。


「いらっしゃいませ」
「お待ちしてました」

 柔らかい声。


 彼女は微笑んだ。

 年は、
 田中よりずっと若い。

 でも、
 話し方は大人びていて、
 どこか影があった。

「今日もお仕事、大変でした?」

 その一言で、
 胸の奥が、
 すっと軽くなる。

「麻里子ちゃんの顔を見たら
 ホッとするわ」

「うれしい!」
「わたしも
 田中さんの顔見たら
 なんだか安心しちゃうな」

 社交辞令だと
 分かっている。

 しかし、
 一日中機械を回し、
 疲れた体だと
 分かっていても、
 熱い血潮が
 否応なしに
 頚椎から込み上げてくる。
 やや心拍数が上がる。

「田中さん、
 ボトルあと少しやから
 新しいの、イイよね?」

 うん、と田中がうなずくと
 麻里子は
「お願いしまーす」と
 ボーイを呼んだ。


 家では、
 弱音は吐かない。

 工場では、
 迷いを見せない。

 でも、
 ここでは違った。

 
 彼女は、
 田中の話を、
 否定せずに聞いた。

 
 それだけで、
 十分だった。


 最初は、
 得意先の社長に
 連れてきてもらったのが
 きっかけだった。
 
 そして、
 何度か
 連れてきてもらううち、
 馴染みの女の子も増えてき、
 自ずと
 通う回数は、
 増えていった。

 ボトル。
 麻里子。
 指名。
 同伴。

 財布は、
 軽くなっていく。


 家では、
 妻が不思議そうに言った。

「最近、
 まとまったお金、
 ちょこちょこ無くなってへん?」


「……そうか?」
「機械も
 結構、
 修理代とか
 消耗品とか
 かかるからなぁ」

 田中は、
 目を合わせなかった。


 ある夜。
 クラブ・リバプール。
 

 麻里子は、
 珍しく、
 深刻な
 顔を見せた。

「どないしたん、
 麻里子ちゃん?」

「えらい今日は
 "お澄ましさん"やん」
 

「……実は」

 声を落とす。


「ちょっと、
 困ってて」

「なんや?
 変な男にでも
 言い寄られてるんか?」
 
「それは、あらへんよ」
 麻里子は
 少しだけ表情を緩めた。

「わたし、
 田中さん以上に
 優しい人、
 おらへんと思ってるもん」

「あー、よかった、
 麻里子ちゃんは
 オレのもんやからなぁ」
 
 水割りの氷が
 白々しく
 カラリ、
 と音を立てる。

「実は・・・」
 と言うと、
 麻里子は
 田中の耳元に、
 その艷やかな
 グロスで覆われた
 唇を
 近づけた。
 
 麻里子の
 体温が
 吐息を通して
 田中の耳に伝わる。

「ママには・・・
 絶対に、
 言わんといて欲しいの」
 

 話は、
 よくあるものだった。


 田舎で一人暮らしの父親。
 入院。
 手術。
 自分は一人娘。

 これまで
 昼の仕事と夜の仕事を
 掛け持ちして、
 なんとか
 仕送りをしてきたこと。

 田中は、
 黙って聞いていた。

 なんとなく
 先の言葉も
 予想できた。

 しかし、
 目を潤ませながら
 少し紅潮した表情の
 麻里子を
 見ていると
 真剣な彼女には
 申し訳ないが、
 改めて
 「いい女」だと思った。
 
 水割りが
 心地よく回る。
  


 その数字は、
 田中の年商の中で
 決して小さくはなかった。

「300万、いるんです」

 カラン、と
 グラスが鳴り、
 

 数字が、
 頭の中で反響した。

 工場の設備。
 税金。
 運転資金。
 

 瞬時に、
 いろんなものが、
 よぎる。

 しかし、
 麻里子の
 その目を見た瞬間、
 田中は
 考えることをやめた。


「……分かった」

 その一言で、
 彼女は、
 涙を浮かべた。


 翌日。
 現金。

 帳簿には、
 載らない金。

 
 理由の説明も、
 できない金。

 
 今日は休みだという
 麻里子と
 夜に待ち合わせた。

 そして、
 二人は、
 長い時間を過ごした。

 
 それ以上のことは、
 田中の記憶の中だけに、
 残った。


 ヤマゲンの税理士事務所。

 午後。

 来客中だった。


 机の向こうには、
 別の顧問先の社長。

 数字の話をしている最中だった。

 そのとき。

 ドアが、
 勢いよく開いた。


源太郎おじさーん!


 やけに明るい声。

 場の空気が、
 一瞬で止まった。


「こらっ!」

 ヤマゲンが、
 思わず声を荒げる。


来客中や!

 社長が、
 目を丸くした。


「あっ」

 若い女性は、
 ぴたりと止まる。


 そして次の瞬間、
 ぺろっと舌を出した。


「ごめんなさい」

 ぺこりと

 頭を下げる。


 ヤマゲンは、
 額を押さえた。


「……まったく」

 社長に向き直る。


「すんません。
 身内でして」


 社長は、
 苦笑いした。


「いえ……
 お元気ですね」


 面談が終わり、
 社長が帰ったあと。

 ヤマゲンは、
 改めて彼女を見た。


「……で?」

ヤマゲンは
イチゴポッキーを
1本つまみ出した。

「なっちゃん、何しに来たんや?」


「今日からです!」

 彼女は、
 さも当然のように言う。

「お世話になります!」

「誰が決めた?」

「お母さん!!」

 即答だった。


 ヤマゲンは、
 深くため息をついた。


 姉の顔が、
 頭に浮かぶ。


 また勝手に決めよって……

「源太郎おじさん、
 ひょっとして
 お母さんから
 なんも聞いてへんの?」

 姉からは
 そう言えば
 しばらく前に
 電話があった。
 
 娘の夏美が

 大学を卒業したものの、
 就職浪人になったので
 半年でもいいから
 面倒を見てやって欲しい、
 と。

 姉は、
 よりによって
 忙しい確定申告期間中に
 電話をよこしたものだから
 源太郎は
 適当に
 話を聞いていたのだった。
  

「そういえば、聞いとる、お母さんから」

「良かった!」
「もし、勝手に来てたら、
 わたし、KYやんもんね!」

「なんやねん、ケーワイって」
「大阪で有名なとんかつ屋か?」

「源太郎おじさん、相変わらず面白なぁ」
 アハハと夏美は笑った。

 夏美が小さい頃、
 源太郎は
 よく遊んでやったものだ。
 
 その頃の
 表情と
 何も変わっていない。
 
 そう言えば、
 姉も
 夏美と全く同じ
 笑い方をする。
 
 なんとなく、
 夏美を見ていると
 姉が思い出された。

 久しく会っていない。

(元気にしてるんやろうか・・・)
 
 すると突然、
 夏美は
 姿勢を正し、
 凛とした表情を
 源太郎に見せた。
 
「改めまして、
 就職浪人中の
 一条 夏美です」


「分かっとるわ・・・」

「今日から、
 よろしくお願いします!」


「しゃーないなぁ・・・」


 と言う源太郎の言葉に
 重ねるように
 夏美は言った。


「ところで、源太郎おじさん」

「わたしの名刺は?」


 そんなものはマダだと
 源太郎は首を横に振った。

「えー、

 入社日やのに
 名刺も用意してくれてへんの?!」

「……明日にでも発注しといたるわ」


 ヤマゲンは、
 内心で思った。

 どうせ一週間もしたら、
 飽きて辞めるだろう。


 だから、
 明日も
 発注するつもりはない。


「とりあえず、なっちゃん・・・」

 ヤマゲンは言った。

「今日は
 コピーと
 ファイル整理」


 源太郎がそう言うと、
 夏美は

「はい!」
 と元気に返事をした。

 そして、
 キョロキョロと
 事務所の中を見回している。

「へえー」

「ここが、
 源太郎おじさんの職場なんや」


「感想はいらん」

「えー」


 源太郎は、
 小さく首を振った。


 やれやれ。

 面倒なことが、一つ増えた。


2026/02/02
連続税務小説 ヤマゲン 第33話 「法人にしたら、税金は本当に安くなるのか?」  

 大和源太郎税理士の事務所。
 午後の静かな時間。

 エアコンの音だけが、
 低く響いている。
 

 机の上には、
 見慣れた試算表が一枚。

 そして、
 もう一枚。


 田中は、
 その二枚を見比べていた。


「……これ」

 思わず、声が漏れた。


「同じ数字、
 ですよね?」


「ええ」

 ヤマゲンは、
 あっさり言った。


同じ売上、
 同じ利益

 です」


「左が今」


「右が、
 法人にした場合」


 田中は、
 数字を追った。


 売上。
 経費。
 利益。

 そして、
 税金。


「……あれ?」

 眉をひそめる。


思ってたほど、
 変わらへん

 ですね」


 ヤマゲンは、
 何も言わない。


 イチゴポッキーを一本、
 袋から出す。


「法人=税金が安い」という思い込み


「田中さん」

 ポッキーを机に置いたまま、
 ヤマゲンは言った。


法人にしたら
 税金が安なる


「この話な」

 少し笑う。


半分、ウソです


 田中は、
 思わず顔を上げた。


「確かに」

 ヤマゲンは続ける。

「所得が大きくなったら」

「個人の
 累進課税より」

「法人税の方が
 率は低くなる


「でもな」

 イチゴポッキーを一本立てる。


そこだけ見たら
 危ない


法人にすると「必ず増えるもの」


「まず」

税金の種類が増えます

 ヤマゲンは、
 指を折りながら言った。


「法人税」

「法人住民税」

「事業税」


「それに」

 少し間を置く。

均等割な

 田中は、
 首を傾げた。

「個人事業の
 田中さんは
 知らんで
 当然や」
  

「法人になったら・・・」
「赤字の年でも」

必ず払わんとアカン
 均等割っちゅう税金

 があるんですわ」


 田中は、
 小さく息を吐いた。



社会保険という「もう一つの税金」


「それから」
 ヤマゲンは、

 少し声を落とした。


社会保険


 田中の表情が、
 引き締まる。


「法人になったら」

「原則、
 加入です」


「社長一人でも」

「会社と個人で
 半分ずつ」

毎月、

 固定で出ていきます

「売上落ちても
 関係ありません」


 田中は、
 無言になった。


「税金だけ」で比べると、見誤る


「ここまで聞いて」

 ヤマゲンは、
 田中を見る。


「法人の方が
 安いと思います?」


 田中は少し言葉に詰まる。

「……正直、
 微妙ですね」

「それが、
 普通の答えです」

 
 ヤマゲンは、
 即答した。


それでも「法人に向いている人」


「せやけどな」

 ここで、
 話を切り替える。


法人にした方が
 ええ人

 は、
 確実におる」


 田中は、
 顔を上げた。


「それは・・・」


「利益を
 全部使い切らへん人」

「会社に
 お金を残したい人」

「人を雇う予定がある人」

「自分が
 現場から
 少しずつ
 離れたい人」

「そして・・・」
税金の安さ
 より」

 はっきり言う。

使い方
 が変わる人です」


 田中は、
 自分を振り返った。


 今は、
 稼いだ分を
 ほぼ生活に回している。


 会社に
 残す余裕は、
 正直まだ少ない。


ヤマゲンの結論(今日の時点)

 ヤマゲンは、
 ポッキーをかじった。

 カリッ。


「田中さん」

「今日の数字見て」

法人にしたら
 得か損か

 を決める必要は
 ありません」


「決めるのは」

 少しだけ、
 声を柔らげる。


この先、
 どう働きたいか

 です」


「税金は」

「その結果として
 ついてくるだけ」


 田中は、
 深く息を吐いた。

 頭の中で、
 「法人=節税」
 という単純な図式が、
 崩れていく。


「ヤマゲンさん」

「……法人化って」


「数字見る前に
 決めたら
 あかんですね」


「当たり前です」

 ヤマゲンは、
 イチゴ柄のネクタイを整えた。


数字見ずに作る会社ほど、
 長持ちせえへん


 事務所を出たあと。

 田中は、
 少し足取りが重かった。

 
 でも、
 不思議と後悔はなかった。

 
 安くなるかどうか。

 その問いは、
 もうどうでもよかった。


 代わりに残ったのは、
 もっと本質的な疑問。

 
 この仕事を、
 どんな形で
 続けたいのか。



2026/02/01
連続税務小説 ヤマゲン 第32話 「法人にした方がトクなんですか?」  

 昼過ぎ。

 町工場に差し込む日差しが、
 以前より少し強く感じられた。


 機械の音は止まらない。
 注文も、
 問い合わせも、
 確実に増えている。


 田中 恒一は、
 作業台に腰を下ろし、
 汗をぬぐった。


 悪くない。
 むしろ、
 順調だ。


 最近、
 周りの声が変わってきた。


「田中さんとこ、
 だいぶ儲かってきてるやろ」


「そろそろ、
 法人にした方が
 ええんちゃう?」


 取引先。
 同業者。
 昔からの知り合い。


「法人にしたら
 信用ちゃうで」


「株式会社ってだけで
 見られ方、変わる」


 そんな言葉が、
 妙に引っかかった。


 夜。
 帳簿を閉じたあと、

 田中は天井を見た。


「……法人にした方が、
 トクなんかな」


 税金。
 信用。
 周りの評価。

 頭の中で、
 整理がつかない。


 翌日。
 ヤマゲンの事務所。


 イチゴ柄のネクタイは、
 今日も控えめだ。


 机の上には、
 試算表。


 田中は、
 少し照れくさそうに切り出した。


「ヤマゲンさん」

「最近、
 よう言われるんですわ」


「“儲かってきたら
 法人にした方がええ”
 って」

「信用も上がる、
 言われまして」


 ヤマゲンは、
 すぐには答えなかった。

 イチゴポッキーを一本、
 袋から取り出す。


「田中さん」

 静かに言った。


それ、
 半分は正解です


 田中は、
 少し身を乗り出した。


「法人=信用が上がる」は本当か


「確かにな」

 ヤマゲンは、
 淡々と言う。


「法人の方が
 社会的な信用
 は上がります」


「銀行」

「大手の取引先」

「新規の企業」


個人事業より
 法人の方が
 話が早い

 場面は多い」


 田中は、
 ゆっくりうなずいた。

 実感があった。


「でもな」

 ヤマゲンは、

 ここで一度、言葉を切った。


“法人”と一口に言うても、
 中身はピンキリです

 ポッキーを
 指でくるりと回す。


今は「1円」で会社が作れる時代


「今な」

「資本金、
 1円でも
 会社は作れます


「極端な話・・・

 個人事業と
 何も変わらん規模の
 スモール法人
 山ほどあります」


 田中は、
 少し驚いた。


「じゃあ、
 法人やからって
 全部が信用される
 わけやないんですね」


「そのとおり」

 即答だった。


「法人=安定」ではない現実


「もう一個」

 ヤマゲンは、
 声を少し落とした。


「これ、
 あんまり
 言われへん話ですけど」


法人作っても、
 5年持たん会社、
 めちゃくちゃ多い


 田中は、
 言葉を失った。


「個人事業より
 早よ潰れるケースも
 あります」


「理由は単純でな」

会社にしただけで、

 中身が変わってへん
 からです」


ヤマゲンの核心


「田中さん」

 ヤマゲンは、
 はっきり言った。


「法人化ってな」

税金の話だけでも

信用の話だけでも

肩書きの話でも
 ありません」


中身が追いついてへん法人
 ほど、しんどいもんはない」


「固定費は増える」

「責任も増える」

「やめたくても
 簡単には
 やめられへん」


 田中は、
 腕を組んだ。


 確かに、
 最近は忙しい。

 でも、
 人は増えていない。

 全部、
 自分が回している。


「ヤマゲンさん」

 田中が、
 ゆっくり言った。


「……法人にしたら、
 楽になると思ってました」


「ほぼ、逆ですわ」

 ヤマゲンは、苦笑した。


「それでも法人化を考える意味」


「せやけどな」

 ヤマゲンは、
 少しだけ表情を和らげた。


それでも法人化を考え始めた
 ってこと自体は」

「悪いことやない」


「それはな」

今のやり方の限界
 が、
 見え始めてる証拠や」

 

 田中は、
 ハッとした。


「次はな」

 ヤマゲンは、
 軽く笑った。


数字で見ましょ


「今のまま個人で行ったら
 どうなるか」

「法人にしたら
 どう変わるか」

「税金だけやなく」

働き方も
 責任も
 全部込みで

 ポッキーをかじる。

 カリッ。


 帰り道。

 田中の頭の中から、

 「法人にしたらトク」
 という言葉が、
 少し薄れていた。


 代わりに残ったのは、
 もっと重たい問い。


 自分は、
 この先
 どこまでやりたいのか。


 法人化は、
 まだ決断じゃない。

 でも、
 避けて通れないテーマに
 なった。

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