ヤマゲンは、事務所の机で別の顧問先の資料に目を落としていた。
決算整理の最終チェック。
残高試算表の数字を一つずつ追っている。
その横で、夏美が田中の月次資料を抱えて立っていた。
「先生、田中さんの月次ですが……」
ヤマゲンは顔を上げないまま言った。
「一人で行ってきい」
夏美は少しだけ間を置いた。
「私だけで、ですか」
「うん」
ペン先だけが紙の上を走る。
「現場は現場でしか学べん」
そして一言、付け足す。
「利益だけ見るなよ」
夏美は、その意味を考える間もなく、
「はい」
と答えて事務所を出た。
工場の事務所に入ると、機械の低い振動音が床を伝ってきた。
机で書類を見ていた田中が顔を上げる。
「今日は夏美さん、お一人ですか」
いつもの穏やかな声だ。
「はい。先生は別件の決算対応でして。今日は私が伺いました」
「そうですか」
田中は立ち上がり、応接テーブルに案内した。
「では、月次を見せてください」
夏美は試算表を広げる。
九月は黒字。
売上も伸びている。
「九月は利益が出ていますね」
「はい。売上も回復しています」
田中は静かにうなずいた。
そして机の横に置いてあった通帳を手に取った。
ページを開き、残高を指で押さえる。
「一つ、教えていただけますか」
「はい」
「うちは、黒字ですよね」
「はい」
田中は通帳を軽く叩いた。
「ですが、残高が減っています」
夏美は呼吸を整える。
「売掛金の回収が翌月になるものがありますので——」
「それは理解しています」
田中は静かに言った。
「減価償却もありますね。現金が出ていない費用です」
「はい」
「在庫も増えています」
「はい」
田中は通帳を閉じた。
「理屈は分かります」
一拍置く。
「ですが、実感が伴わないんです」
夏美は言葉を探す。
「利益と現金は一致しませんので——」
「ええ」
田中はうなずく。
「そういうものだと言われれば、その通りなのでしょう」
しかし、そのあとに静かな間が落ちた。
「ただ」
田中は試算表を指で軽く叩く。
「会社を動かしていると、数字より先に、通帳の残高が目に入るんです」
夏美は黙った。
その言葉には、怒りはない。
だが、重さがあった。
「正直に言うと」
田中は続ける。
「この試算表を見て、“安心できるか”と言われると……」
言葉を濁す。
「腑に落ちないんです」
夏美は、自分の説明が机の上で止まっているのを感じた。
「……申し訳ありません」
思わず言っていた。
田中は首を振る。
「いえ。説明は分かります」
その言葉が、逆に重い。
理解はしている。
だが、納得はしていない。
「一度、整理して改めてご説明してもよろしいでしょうか」
田中は少し考え、うなずいた。
「ええ。お願いします」
事務所に戻ると、ヤマゲンはまだ机に向かっていた。
「先生」
「どうや」
顔を上げない。
「田中さん……納得されませんでした」
ペンが止まる。
「怒ったか」
「いえ。むしろ冷静でした」
夏美は続ける。
「理屈は分かるとおっしゃいました。でも、腑に落ちないと」
ヤマゲンは椅子にもたれた。
「お前は何を説明した」
「売掛金、減価償却、在庫……利益と現金のズレです」
「それで?」
「それだけでは足りませんでした」
ヤマゲンは小さくうなずいた。
「社長は何を知りたい?」
夏美は少し考える。
「安心……でしょうか?」
「違う」
ヤマゲンは即座に言った。
「判断材料や」
夏美は顔を上げる。
「黒字かどうかやない。
来月、残高がどうなるかや」
ヤマゲンはメモ用紙を引き寄せた。
残高。
入金。
支払。
三つの言葉を書く。
「社長はな、利益やなくて“残高の未来”を見たいんや」
夏美の頭の中で、何かが繋がった。
「通帳の横に、支払予定と入金予定を並べろ」
ヤマゲンは言う。
「未来の残高を見せてやれ」
二日後。
夏美は再び田中の工場を訪れた。
「先日はありがとうございました」
机の上に三枚の紙を並べる。
通帳のコピー。
支払予定一覧。
そして一枚の表。
「これは資金繰りの見通しです」
田中は黙って見ている。
「今の残高から、入金予定と支払予定を差し引いていきます」
数字が並ぶ。
途中で残高が大きく減る箇所がある。
田中の指がそこで止まった。
「……ここですね」
「はい」
夏美はうなずいた。
「この瞬間が、社長の違和感の正体です」
田中はしばらく表を見ていた。
「……なるほど」
田中は資金繰り表を見たまま言った。
「回るかどうか、ですね」
「はい」
田中は静かにうなずいた。
「分かりました」
完全な納得ではない。
だが、最初にあった距離は、少しだけ縮んでいた。
帰り道。
夏美は空を見上げた。
理屈は前から知っていた。
だが、経営者が見ているのは、
帳簿や試算表の利益だけではない。
通帳の残高。
その先。
そのことを、
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