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連続税務小説 ヤマゲン 第68話 「分かれ道」

2026/03/09
連続税務小説 ヤマゲン 第68話 「分かれ道」

 春の午後。

 

 事務所の窓から、柔らかい光が入っていた。

 

 夏美は机の前に立っていた。

 

 手には一枚の紙。

 

 日商簿記検定二級

 合格通知。

 

 ヤマゲンはそれをちらりと見て、

 小さくうなずいた。

 

「受かったか」

 

「はい」

 

「おめでとうさん」

 

 それだけだった。

 

 夏美は少し笑う。

 

「もうちょっと喜んでくれてもいいのに」

 

 ヤマゲンは試算表から目を離さない。

 

「簿記2級は」

 

「スタートラインや」


「そやけど」

「一発合格するとは、思わんかった」

 事務所のラジオから、天気予報が流れる。

 春の陽気は一時中断。
 寒気が入り、
 雪……

「ほらな」

 ヤマゲンが笑う。

「えー、お天道様まで、
 私の合格をからかってるの!」

 夏美がムッとした顔をした。

 まぁまぁ、となだめるようにヤマゲンが続ける。

「たしかに、簿記2級はスタートラインや」

「そやけど、今までよりも数倍、理解が違うはずや」

「上げたり、下げたり、忙しいわね」

 夏美は肩をすくめた。

 

 だが、

 自分でも分かっていた。

 

 確かに、

 見える景色が変わっていた。

 

 今までは、

 売上と経費を中心に

 数字を見ていた。

 

 会計ソフトに

 ヤマゲンに教わった通りに

 入力していけば、

 数字はきれいに表になる。

 

 どこか間違いがあっても、

 最後はヤマゲンが

 全部尻拭いしてくれる。

 

 そんな感覚だった。

 

 だが、

 複式簿記を学んでからは、

 違う。

 

 売上が立てば、

 売掛金が動く。

 

 仕入をすれば、

 買掛金や在庫が動く。

 

 利益の裏で、

 資産や負債が

 必ず動いている。

 

「損益は、あとでええ」


「B/S(資産・負債)から固めるんや」

 

 常日頃からそう言っていた、

 源太郎の言葉の意味が、
 今の夏美には理解できる。

 現金・預金・売掛金・買掛金・借入金……

 これらの資産と負債が、
 会計づくりの”すべての源”だということ、

 そして、

 これらのB/S勘定が正しく会計処理できていないと、
 その裏付けとなる損益勘定は全く意味がないこと……

 ヤマゲンの言葉が、
 数字として、

 つながって見えるようになっていた。


 そして、
 繰り返し、
 口に出して覚えたおかげで、

 すべての取引が、
「借方」「貸方」で説明できるようにまで、
 夏美は成長していた。

 ふと、ヤマゲンが言った。

 

「なっちゃん」

 

「はい」

 

「そろそろ」

 

 一言。

 

「考えた方がええ」

 

 夏美は首をかしげる。

 

「何をですか」

 

 ヤマゲンは言った。

 

「これからや」

 

 少し間を置く。

 

「今はな」

 

「就職浪人中や」

 

「お前のお母ちゃんから、頼まれて」


「一時的にってことで」

「うちで面倒見とる」

 

 夏美は黙った。

 

 それは、

 自分でも分かっていることだった。

 

 大学を卒業して、

 就職は決まらなかった。


 いや、正しくは、内定は出ていた。
 しかし、
 どうも、夏美は腹を決めかねていた。

 商学部出身で、経営や会計には興味があった。

 在学中も、その辺りの単位は取っていた。

 しかし、いざ就職活動となると、
 なぜか、場当たり的な行動を取ってしまっていた。

 そんなとき、源太郎の姉に当たる夏美の母から、

「源太郎おじさんのところで、
 ちょっと面倒を見てもらったら?」

 と言われたのだった。

 無骨だが、
 どこかユニークで、
 夏美が幼い頃はよく遊んでくれた叔父だった。

「それも、いいかもね……」

 だから今、

 夏美は、叔父の税理士事務所に通っている。

 

 ヤマゲンは続ける。


「ほんまは、一発で合格するとは思ってへんかった」

「せやけど、見事に、2級、一発合格した」

 

「せやったら」

 

 一言。

 

「ここで働くか」

 

「他へ行くか」

 

「ぼちぼち」

 

「決めてもええ頃や」

 

 夏美は答えられなかった。

 

 仕事は、

 面白い。

 

 会社の数字。

 

 お金の流れ。

 

 社長の夢と悩み。

 

 すべてが

 どこかでつながっている。

 

 だが、

 同時に思う。

 

 税金。

 

 お金。

 

 会社経営。

 

 すべて

 簡単な世界ではない。

 

 むしろ、

 とても厳しい世界だ。

 

 自分に、

 できるのだろうか。

 

 この先、

 腰を据えて税務の世界で働いていく場合、

 税理士試験を受けて、

 資格まで取れるのだろうか。

 

 ヤマゲンは試算表に目を戻したまま言った。

 

「せやから」

 

 ペンを止める。

 

「とりあえず」

 

「田中さんの工場に加えて」

 

「顧問先」

 

「7件」

 

 一言。

 

「担当してみい」

 

 夏美は思わず顔を上げた。

 

「7件、ですか?」

 

「そや」

 

 ヤマゲンは淡々と言う。

 

「色んな社長」

 

「おる」

 

「無茶言う社長」

 

「きっちりした社長」

 

「いつも金に困っとる社長」

 

 一言。

 

「全部」

 

「見てこい」

 

 夏美は少し考えた。

 

 そして聞いた。

 

「でも」

 

「どうして7件なんですか?」

 

 ヤマゲンは少しだけ笑った。

 

「まぁ」

 

 一言。

 

「そのうち」

 

「分かる」

 

 それ以上、

 何も言わなかった。

 

 答えは

 与えない。

 

 それが

 ヤマゲンのやり方だった。

 

 夏美はゆっくりうなずいた。

 

 机の上の合格通知を

 そっと鞄にしまう。

 

 これから、

 7人の社長との物語が、
 静かに始まろうとしていた。

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